艦つく 金剛。 【艦つく】序盤で空母は役に立たない!?がっつり本音でレビュー!戦闘よりもクラフトが楽しい。

金剛 (戦艦)

艦つく 金剛

どうもポニポニです!今回は 2019年8月20日にリリースされた新作アプリ 『艦つく』をがっつり本音でレビューしていきます。 私はまだまだ序盤をプレイしているところなんですが……既に 良いところや悪いところはハッキリしている感じ。 最初に1つ言えることがあるとすれば 「戦闘よりクラフトが楽しいゲーム」ですね。 リアルでクオリティの高いグラフィックということもあり、インストールする前から結構楽しみにしてました。 イ ンストールする前とした後で印象がかなり変わったゲームでもありますから、そこらへんも話していきたいと思います。 ゲームの基本的な流れを紹介すると共に、 どこが良くてどこが悪いのかを本音で語っていきますよ。 アカネさーんレンさーん!今回もよろしくです。 ポニポニさん、最初はガチャゲーだと思ってたんだよね。 そうなんです、 実際始めたら全然そんなことなくて……それについても話していきますよ。 基本的なゲームの流れ 戦闘!の前にまずは造船 艦つく1番の魅力であり面白い部分と言っても過言ではない 「造船(クラフト)」です! 艦船を自分好みにクラフトしていく……プラモデル製作などが好きな人にはたまりませんよね。 最初は 駆逐艦1隻と、 事前登録報酬で貰える敷島型戦艦1隻しか船体はなく、パーツも 「40口径安式7. 6cm単装砲」や 「40口径安式15. 2cm単装砲」、その他戦艦用のパーツが数種といった感じで選択肢はあんまりありません。 でも、 ゲームを進めていけばいくほど新しく購入できる艦船やパーツが増えていき 「自分の好きなように艦船をクラフトできる」ようになっていきます。 先ほども言ったように、ガチャゲーではないので パーツを集めるのに課金は必要なし。 イベント限定パーツとかあったらやる気でちゃうよね!あ、でも……参加できない人がかわいそうだから、難しいなぁ。 細かいシステムの説明などは置いといて、 このクラフト作業がとても楽しいんですよ! 本格的なクラフトゲームというだけあり、 「兵装」などの攻撃手段だけではなく他の 「設備」や 「機関」も自分でパーツを設置していきます。 艦船を動かすのに必要な 「タービン」・ 「ボイラー」はもちろん、 「艦橋」・ 「マスト」・ 「煙突」なども 全て自分でパーツを選び、どこに置くか、どれだけの数置くかを決めるんです。 プラモデル制作などが好きな方は、これだけで 数時間は熱中できるんじゃないかと思います。 いや、できます。 どんな風に 「兵装」を積み込もうかとか、消費燃料を抑えるのか、逆に消費燃料を上げて 「速力」を重視したり 「装甲」も厚くできたりなど…… ホントに自由。 そして 自分が作り上げた艦船を実際に戦闘で使うと、とても気持ちがいいものです。 アタシも無事つまづいちゃったよ……戦艦を使って無理やり突破するけどね! 消費燃料は増えますが 巡洋艦や 戦艦を使うのもいいですし、 1隻での攻略が難しくなったら艦隊を組んでいきましょう! ゆくゆくは6隻とかの艦隊で高難度ステージに挑むことを考えると…… クラフトが楽しみです。 戦闘では基本的に手動で全てを操作します。 自動兵装に設定すれば自動で攻撃してくれるんですが……命中精度が低いので、少なくとも序盤は手動で攻略を頑張りましょう。 攻撃手段は自動化できても移動は手動なので完全自動化はできません。 あと、 僚艦はオートで動いてくれるので安心してください。 これも インストール前とはイメージが違ったんですよ。 インストール前は艦隊を組んだりクラフトするのがメインで、戦闘は全体の状況を見ながら指示を出して見守るタイプだと思ってたので…… 事前に内容を調べてなかっただけなんですけど。 様々なコンテンツ• 任務:艦船の兵員を訓練するアイテムを獲得できる。 演習:他プレイヤーの艦隊と戦闘するコンテンツでリアルタイム対戦ではない。 報酬もある。 工廠:造船など艦船に関わる項目が全て詰まっている。 レンさんありがとう!私がまとめるより簡潔でありがたいです。 艦つくの魅力! 自分だけの艦船を作り上げるのが楽しい クラフトの説明の時にも言いましたが、やはり クラフトをしている時が1番面白いです! 私はまだまだ序盤をプレイしている最中なので、パーツの種類も少なくとりあえず沢山砲を詰め込んでるくらいですが…… ゆくゆくは魚雷を積みまくってみたい。 造船できる艦種が増えていけばその分パーツの種類も増えていき、 選択肢はどんどん広がっていきます。 序盤こそ皆似たような構成かもしれませんが、 先に進めば進んでいくほど独自の艦隊を作ることができるはず! 逆に言うと、 クラフト部分があまり楽しくないと感じる人にはあまりオススメできないですね。 あぁ、それは私も思うわね。 僚艦の動きとか全体的にじっくり見てみたいわ。 課金周り・不満なところについて さぁ、 ここからがある意味本題! ここまでも本音でしたが、ここからはより 本音全開で話していきますよ。 無課金でも楽しめるのか? 今回は声を大にして言えます。 無課金でも充分楽しめます! むしろ 「どこに課金すればいいんだろう?」と考えてしまうレベルです。 今のところ課金限定のパーツなどもありませんし、どのパーツも時間をかければ獲得できます。 燃料不足に関しても、燃費を考えずに戦艦などを毎回使ったりしていればすぐに燃料が尽きてしまうかもしれませんが……。 プレイヤーレベルが上がるほど自然回復の効率が上がっていくシステムということもあり、 楽に攻略できるところは低燃費にして、周回も低燃費でするようにすればそこまで困らないです。 何時間も周回するようなスタイルだと、確かに燃料不足に悩むと思いますが…… 燃料がなくなった時はしばらく休憩すれば平気でしょう。 戦闘開始時に艦船が静止した状態で始まるのが辛い。 その上敵艦に囲まれている状況が多いので攻略が大変。 自動兵装に設定しているのに、1発ずつしか攻撃してくれないバグ(?)がある 後者については仕様ではないと思うので、今後改善されると思いますが……今の所この2つが不満ですかね。 ネットの声を聞いてみると、 戦闘自体微妙という意見もあるようですけど、 私は嫌いじゃないですよ! ただ 「戦闘よりクラフトが楽しい」のは私も同意見です。 攻撃しながら移動するのも、今は大変だなーと感じてますが……いずれ慣れるでしょう。 あと 小さい不満としては、 空母が活躍する場にまだ到達できてないんですよ。 空母を出してもモタモタしてる間に何もできず攻撃されるだけなんです……。 戦闘開始時の静止した状態が若干理不尽に感じる• 8月23日現在自動兵装に関するバグがある 最後に 以上、艦つくの 本音レビューでした! 正直、人によってはクラフト部分だけでいいって意見もありそうですよね。 私も最初はクラフトがメインで、戦闘は指示を出すだけのゲームかと思ってましたし……まぁ戦闘も楽しいですけど。 不満もあるにはありますが 無課金にはかなり優しいゲームですので、 興味があればとりあえずプレイするだけの価値は絶対にありますよ! 私が書いた リセマラ情報記事や 序盤攻略記事もありますので、よければご覧ください! 新作ゲームの情報や記事作成など……そしてポニテへの愛を呟くツイッターのアカウントを作成しました。 早くレンさんに追いつけるよう頑張ります。

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金剛86

艦つく 金剛

戦艦金剛喪失について 〜研究作文其の七〜 戦艦金剛喪失について 太平洋戦争に現役戦艦として最も古く、そして最も活躍した艦といえば、戦艦 「金剛」でしょう。 太平洋戦争開戦より、機動部隊の直援艦として活躍し、ソロモン・マ ーシャル方面での作戦支援を実施し(その間には有名なガダルカナル島砲撃があります)、マリアナ ・レイテと大海戦に参加して、米軍艦載機や護衛空母に主砲弾を発射し、最後に本土に帰還途中に 潜水艦によって、その33年にも及ぶ生涯を終えています。 金剛型四隻は太平洋戦争中に最も活躍した戦艦でしたが、その主要因が30ノットを発揮できた 高速力です。 山城級や伊勢級、長門級では、機動部隊に随伴できず、結果として主戦場に常に参加 するということになりました。 またその艦歴の古さも使いやすさの一環となったと思われます。 立ち消えにはなりましたが、ワシ ントン条約下では艦齢20年を越えた戦艦は代艦を建造してもよいこといになっており、実際40 センチ砲を装備した中速戦艦も4隻計画されていました。 ロンドン条約の結果、代艦は建造されま せんでしたが。 なにはともあれ、太平洋はもとより、インド洋に遠征さえして金剛は戦いました。 その戦記は色々 出ていますが、金剛沈没に関しては、海戦中ではなかったことや、戦局が大きく動いている時期で 注目度が低かったこと、前後に 「大和」「武蔵」という二大戦艦が沈 んでおり、そちらに目が行ってしまう点など、あまり目にする機会がなかったので、ここの簡単に 纏めてみたいと思います。 「金剛」が最後に参加した海戦はレイテ海戦です。 第一遊撃部隊・第一部隊・ 第三戦隊として、栗田艦隊の5隻の戦艦の一隻として参加しています。 海戦は圧倒的な米 艦載機の攻撃にさらせれつつレイテ湾に突っ込みましたが、途中で反転、参加艦艇の半数を喪失す るという被害を受けつつ、終了しました。 この間、金剛は米護衛空母 「ガンビア ・ベイ」に砲撃戦を実施しましたが、帰路に米艦載機の空襲を受け、至近弾による被害を 受けています。 「金剛」は、を10月22日に出撃、10月28日に満身創痍の艦隊とともにブルネイ泊地に帰還しました。 既に レイテを始めとするフィリピン全域の制海権・制空権は連合軍のものとなり、マニラに司令部を置く 南西方面艦隊は、激しい空襲で揮下艦艇を次々と失いつつ、レイテに向 けての増援部隊を計画していました。 この事から、僚艦 「榛名」は重巡数隻とともに南方方面に残留して、レ イテ方面の支援につくこととなり、 「金剛」「大和」「長門」の3隻が 内地に帰還することとなりました。 もっとも「榛名」もこのあとすぐに蝕礁してしまい、修理のために 内地に帰還することになります。 この時期、連合艦隊はレイテで受けた被害より再建するために艦隊編成を変えています。 エンガノ岬沖で 壊滅的被害を受け、 第三艦隊・第三航空戦隊の空母四隻が沈んでおり、第 三艦隊は艦載機すら失って、無力化していました。 また水上部隊の 第二艦隊 も3戦艦を失い、艦隊も半減していました。 ここで既に戦力を失っていた第三艦隊と指揮下の 第一機動艦隊を解体し、第 三艦隊に所属していた 「伊勢」「日向」を第二艦隊に移しました。 残存空母 は連合艦隊付属として 第一航空戦隊を置き、ここに残った空母( 「信濃」「雲竜」「天城」「葛城」「隼鷹」「龍鳳」)を集め、空母部隊の再建を図り、生き 残りの少なくなった水雷戦隊は、機動部隊直援部隊だった 第十戦隊を解体して、 第一・第二水雷戦隊へと分散しました。 第二艦隊には全戦艦と重巡を集中して、第二水雷戦隊を回し、南方防衛とフィリピンの支援には 第五艦隊を使用することとなりました。 この部隊には重巡 「足柄」と 第一水雷戦隊が配備されています。 もっとも南方防衛は南西方面艦隊が指揮を取ることになっていたので、 第五艦隊はこの下に入り、さらに 第四航空戦隊の「伊勢」「日向」、 第五戦隊の妙高級と高雄級も指揮下に入れました。 ちなみに20年1月1日付けで第二艦隊もさらに編成変えを実施し、第一航空戦隊を指揮下に入れて、 空母機動部隊となっています。 ただし、母艦航空隊は壊滅状態でしたが。 めまぐるしく変わる艦隊編成は、この時期の大消耗戦の結果でした。 第一・第二水雷戦隊はレイテ輸送の 「多号」作戦に参加して、駆逐艦をすり減らしており(第二水雷戦隊にいたっては司令部ごと全滅しました)、 再建に務めていた一航戦も「信濃」「雲竜」と潜水艦に撃沈され、再建どころか壊滅の危機に晒されていました。 第二艦隊はその主力を内地に置いて、フィリピン戦後の連合軍の侵攻に備えることとなります。 そのために、 ブルネイに集まった戦艦群のうち、3隻が内地に帰還することとなったのです。 レイテ海戦後に引き揚げて来たブルネイ泊地も、既に米空軍の空襲圏下に入っており、11月16日に は艦隊を目標としたB24とP38の空襲がありました。 この日に3戦艦の内地帰還が発令されていま す。 すでに南シナ海は、米潜水艦の土俵となっており、3戦艦の護衛にはこれまで水上部隊の名門水雷戦隊として 活躍してきた 第二水雷戦隊があたることになりました。 以下にその艦隊編成 を挙げます。 第二艦隊 (栗田武雄中将) 独立旗艦 「大和」 第三戦隊 (鈴木義尾中将) 「長門」「金剛」 第二水雷戦隊 (第十戦隊司令、木村進少将が代理指揮) 「矢矧」、 第十七駆逐隊 「浦風」「浜風」「磯風」「雪風」 第三一駆逐隊 「梅」「桐」 上記艦隊のうち、第三一駆逐隊は本来は二水戦の指揮下にはなく、途中の台湾まで同行して護衛につくこと になっていました。 全10隻の艦隊ですが、駆逐艦の数の少ないところが問題でした。 しかしながらどの戦線 でも駆逐艦が不足している状態では、この数を揃えるのがやっとのことでした。 艦隊は10月16日にブルネイ泊地を出港、「矢矧」「金剛」「大和」「長門」の順で単縦陣を組み、両側に 駆逐艦を配する形で18ノットの艦隊速力で北上しました。 その頃台湾では米機動部隊の来襲があり、これに 襲われないようやや艦隊を西より、大陸側に這わすような航路を選んでいます。 最も警戒すべきバシー海峡を、台風で波の荒れた状態の時に突破して、この時点で三一駆の駆逐艦2隻を台湾 に分離しました。 既に道中の過半を越え、そろそろ本土の声が上がりはじめた時に潜水艦の雷撃を受けたのです。 この第二艦隊に襲い掛かった潜水艦は、 第三艦隊所属の 「シー ライオン」で、艦長は E・T・リーチ中佐でした。 これまで、敷設艦 「白鷹」を撃沈したこともある熟練潜水艦です。 この時期はバシー東方を哨戒圏 として商船狩りを行なっていました。 バシー海峡を抜けた第二艦隊はそのまま北上し、空襲に警戒しながら台湾西方を台湾と中国の間にある台湾海峡 を抜けるために北上していました。 このときの陣形は主力艦の単縦陣の右に「浦風」「雪風」、東に「磯風」 「浜風」と並んでいました。 荒れた海の中、延々を浮上追跡をしていた「シーライオン」は、当初先頭の「矢矧」を狙っていましたが、途中 で大物狙いと変え、二番艦の「金剛」に向け2700メートルの距離から6本の魚雷を発射しました。 時間は1 1月21日の午前二時五六分です。 3分後にさらに3本の魚雷を発射し、その60秒に命中しました。 「金剛」に命中したのは艦首錨鎖庫の下と二番煙突のあたりです。 2本の魚雷(4本の説もあります)が命中し、 その直後にあとで発射された3本のの魚雷が「長門」の艦首をかすめ、「浦風」に一本当たりました。 「浦風」は この魚雷で轟沈しています。 当初、金剛に命中した魚雷の数からして、艦首脳部もそれほど心配しておらず、乗組員も副砲や機銃で艦周辺の 海上を掃射していました。 しかし潜水艦の連続攻撃をさけるために18ノットでしばらく進んでいたこと、老朽艦 のためにあちこちにリベットの緩い場所があった点等より、浸水は止まらず、間もなく14度まで左舷に傾いてし まいました。 この時点では艦隊主力より分離して「磯風」「浜風」が護衛につき、近くにあった基隆に入港することとし、6ノ ットで這うように前進していました。 艦内の浸水個所には応急決死隊が駆けつけて、必死の作業に当たりましたが 間もなく傾斜が45度を越え、ラッタルを上がることも難しくなりました。 浸水がすすみ機関も停止した時、「総員右舷ニ寄レ」が発令されました。 ただ、この時点で艦内に残った 乗組員は傾斜のために上甲板にあがることがほぼ不可能となっていました。 その後すぐに、「軍艦旗オロシ方」が発令され、傾斜60度の時点で「総員退艦」が発令されました。 この時点で 「シーライオン」は落伍した「金剛」を追跡しており、魚雷の次発装填も終了していました。 「金剛」が沈んだのは基隆北西60海里の地点で、生存者は副砲長高畑少佐以下237名、鈴木司令官、島崎艦長 以下1300名余りは艦と共に沈みました。 傾斜が進み、第一砲塔の弾薬庫の中で主砲弾が横倒しになり、誘爆したのが止めとなりました。 追跡にしていた 「シーライオン」は遠方、月一つない闇夜の中に火柱を確認して、攻撃を中止、先行した艦隊主力の追跡に入りまし た。 艦隊主力は23日に本土着、「長門」はそのまま駆逐艦3隻に護衛され横須賀に向い、一七駆の3隻はその帰路に空母 「信濃」の護衛につくこととなります。 「榛名」も「隼鷹」とともに12月に本土に帰還してきましたが、既に 戦隊を組むべき僚艦は、呉にはいなかったのです。 2000/2/5 主要参考文献〜以下の文献に特に謝意を表します〜• 「丸」97年2月号/潮書房• 「丸SPECIAL」NO.9「戦艦金剛」/潮書房/1976• 「雪風は沈まず」/豊田穣/光人社/1983• 「四本の火柱」/豊田穣/集英社/1979(文庫版。 単行本は1977、毎日新聞社より)• 「撃沈戦記PART2」(新戦史シリーズ23)/木俣滋郎/朝日ソノラマ/1990.

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「艦つく Warship Craft」スマホとは思えないリアルなグラフィックスの軍艦で海戦TPSが楽しめる新作スマホゲーム!|オンラインゲームPLANET

艦つく 金剛

2()年、で公試中の金剛。 3本の煙突からは、もうもうと黒煙が上っている。 このときの全力公試では27. 54ktを記録した。 6m 219. 4m(第二次改装) 最大幅 28. 0m 31. 0m(第一次改装) 推進 蒸気タービン2基、4軸64,000馬力 蒸気タービン4基、4軸136,000馬力(第二次改装) 速力 27. 5 26kt(第一次改装) 30. 3kt(第二次改装) 航続距離 8,000(14kt時) 10,000浬(14kt時、第一次改装) 9,800浬(18kt時、第二次改装) 乗員 士官、兵員2,367名 兵装 竣工時 45口径35. 6cm連装砲4基 50口径15. 2cm単装砲16基 53cm魚雷発射管8門 最終時 35. 6cm45口径連装砲4基 15. 2cm50口径単装砲8基 12. 7cm連装高角砲6基 25mm3連装18基 同連装8基 同単装30挺 (機銃は推定) 装甲 舷側:8 203. 2 -3in 76. 2mm 甲板:2. 25in 57. 2mm -2. 63in 66. 8mm 砲塔:10in 254mm -9in 228. イギリスに発注された最後の主力艦である。 2度の改装後は高速戦艦として、でも活躍した。 なお金剛は、日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製日本戦艦でもあった。 艦歴 [ ] 金剛のはとの境にあるにちなんで命名された。 艦名は 明治10年 進水のに続いて2代目。 計画時の名称では「伊号装甲巡洋艦」と呼ばれとして計画されていたが、建造中にに艦種変更され金剛と命名された(日本海軍の命名慣例についてはを参照)。 戦艦には旧国名が命名されることが多いが、金剛が戦艦に艦種変更されたのは第一次改装中の1931年(昭和6年)6月1日付であり、竣工当初は巡洋戦艦であったためである。 また金剛は、日本の主力艦として初の艦であると同時に、改修に改修を重ねたのちは快速を誇る「高速戦艦」として、期には旧式化していながらも盛んな活躍を見せたのでもある。 現代のでは、開発国以外では世界初となるの1番艦「」にその艦名が受け継がれている。 建造までの経緯 [ ] 終結2年後の(明治40年)に金剛の建造が決定された。 最初はとして計画されたが、がに画期的戦艦のを完成させて以来あまりに戦艦の進歩は飛躍的になり、設計はまとまらなかった。 には弩級巡洋戦艦3隻が竣工 、には(ドレッドノートを超える戦艦という意味)が起工されるとともに当時世界最大艦となる超弩級巡洋戦艦が計画されるという事態に鑑み、(明治44年)に「金剛」を超弩級巡洋戦艦として建造すべく計画を変更した。 予算が通過したのは(明治43年)である。 この当時日本海軍は1907年(明治40年)計画の国産を建造中であったが、構想や技術的に欧米に劣る点も多く認められたため、金剛は技術導入を兼ねてイギリスに設計・建造を依頼した。 建造にとヴィッカース が名乗りを上げたが、設計試案と技術力を検討しを建造した実績からヴィッカースに決定した。 建造 [ ] 基本計画はによる。 計画にあたり日本海軍はイギリス海軍と違う戦略、伝統、その他の事情による意見を出し、の技術者と詳細な意見交換を行なった。 設計にはヴィッカースの主任設計師卿()が当たった が、の指導に負うところも多いという。 サーストンはに輸出予定だった戦艦 発注時はレシャド5世)を元に巡洋戦艦を設計する。 この艦は当局の課す設計上のさまざまな制限から自由に設計できたため、14in砲8門を搭載した、極めてバランスの取れた素晴らしい軍艦と認められた。 その際立った特徴は、射界の狭い船体中央の砲塔を廃して、主砲塔を前後二基ずつ配置したことである。 14in砲は当時イギリスが採用していた13. 5inより少しでも威力のある砲を、と採用したものだが、これは日本海軍が世界最大の艦砲を持った最初の例となった。 イギリスが図った便宜 [ ] 軍艦を建造する造船所はそれぞれ他社にはない独自の技術を持っており、一般に企業秘密として公開しない。 しかし、ヴィッカースは戦艦、を建造した実績があり、日露戦争での日本海海戦における三笠の活躍を誇りとしており、日本海軍と親密な関係が保たれていた。 発注に際し日英両国の間で次の約束がされた。 日本海軍の造船、造機、造兵各技術者を派遣、長期に渡り金剛の工事の一切を監督、調査する。 砲塔その他一切の船体、機関などの図面を日本は入手し、引き続き利用して同型艦を日本国内で建造する。 ヴィッカースは快く派遣要員を受け入れ、技術指導を実施した。 日本より建造立ち会い監督官、船体、機関、武器各部門の技術士官、2番艦()を建造する横須賀工廠の工員が多数派遣され、また3番艦()や4番艦()を建造する神戸とから技術者や工員が建造技術取得と調査のために渡英した。 金剛の設計図は契約に基づき日本に引き渡され、同型艦3隻は本艦の図面を元に国内で建造された。 特に日本が立ち後れていた艦内電気艤装工事の技術は大きな収穫となり、日本の造船技術を一躍世界超一流に引き上げる結果となった。 日本海軍ではこれを「技術輸入」と称していたという。 後に戦艦の46cm主砲を製造した秦千代吉もこの時派遣された者の一人である。 進水式 [ ] (明治45年)5月18日に進水。 同日附で「伊号装甲巡洋艦」は正式に金剛と命名された。 外国では艦首に吊るしたシャンパンボトルを割るのが通例であったが、日本側の要望で日本式に鳩の入ったを用いたところ、イギリス人が珍しがって喜んだという。 (大正2年)、金剛廻航員はにおいてと謁見した。 、中佐(金剛副長兼艦政本部艤装員)はメインデリック試験中に事故で大怪我を負い、退艦した。 後任の金剛副長は中佐。 回航 [ ] (大正2年)に竣工。 同日附で、巡洋戦艦金剛としてに登録される。 これは卯号装甲巡洋艦比叡の登録日(大正元年11月21日附)より遅く、書類上は巡洋戦艦-比叡-金剛という順番だった。 回航は、日本海軍の乗員により行なわれ、大艦であったためを通れず回りで横須賀に到着した。 11月10日、横須賀で特別観艦式がおこなわれ、は戦艦「」を御召艦として諸艦を親閲した。 建造後の影響 [ ] 世界最大、世界最強の戦艦として完成以来金剛の名は世界に轟き、日本海軍の戦力は空前絶後の飛躍を遂げた。 なお、タイガー型巡洋戦艦には全く関係はない。 シーメンス事件 [ ] アームストロング・ホイットワースとヴィッカースは軍艦の建造受注を巡って競争していた。 ヴィッカースの日本代理店にはした(元予備海軍造船総監)がおり、艦政本部長と交流があった。 協議の結果、三井取締役はヴィッカースに対し金剛のコミッションを2. 1910年(明治43年)3月、海軍機関大佐は渡英してアームストロングとヴィッカースから提出された新型巡洋戦艦の調査を行い、8月にヴィッカース有利の報告を出した。 11月17日、三井物産は230万7100ポンドで日本政府と金剛の建造契約を調印する(巡洋戦艦は209万2214ポンド)。 藤井は交友のあったヴィッカースのバーロウ造船所長から20万円の謝礼を受け取った。 松本は約40万円を受け取った。 また姉妹艦の蒸気タービン製造を三菱造船所が断ったため、ヴィッカースは1911年(明治44年)3月25日に13万2000ポンドで契約調印、藤井は1万円の謝礼を受け取った。 詳細は「」を参照 (大正3年)3月、ドイツの企業シーメンスを巡る裁判でが発覚、松本らはにかけられ処分された。 総理大臣率いるもに追い込まれた。 第一次改装までの小改装 [ ] 第一次改装までに小改装が繰り返された。 年代別に記載する。 1914年10月から翌春 - 羅針艦橋上部に前檣と結ぶ露天甲板設置。 7、8番の90cm探照灯を110cm探照灯に換装した。 1915年7月 - 1、2番の90cm探照灯を110cm探照灯に換装した。 1916年末 - 前部三脚マスト頂部の射撃観測所に方位盤照準装置を設置 し約22,000mまでの砲戦が可能となった。 主砲塔上にあった子砲(ねほう、短8cm砲)を撤去し 、8cm外筒砲を装備した。 逆風時に排煙が艦橋に流入するのを防ぐため第一煙突を高く改正、煙突頂部に防煙盾を設置した。 射撃命中率向上のため前部マストヤード前面に測的所を設置した。 1918年3月4日 - 1、2番煙突両舷最上甲板の短8砲を 8cm単装4基に換装。 前部マスト基部張り出しと第一煙突横後方の両舷探照灯を廃止、第一煙突と第二煙突の間に探照灯台を設置し、探照灯を移設した。 第二煙突の頂部に煙路雨水浸入防止キャップを取り付け。 砲塔と艦橋前面にを設置。 前部三脚マストを廃止し、射撃指揮所を含めた櫓式艦橋とした。 1925年11月1日より - 主砲仰角を25度から33度に引き上げ 、これにより最大射程を25,000mから28,500mに延伸。 砲室屋根鈑を3inから6inに増厚。 後部三脚マスト上の射撃観測所を撤去した。 第三砲塔後部の上部構造上に水上偵察機を搭載し、これに伴い機を吊り上げるデリックポストと起倒式ブームを右舷に設置した。 第一次改装 [ ] 第一次改装後の金剛 1928年(昭和3年)10月より1931年(昭和6年)9月15日まで横須賀工廠 で、主として水平・水中防御力の強化と重油への燃料移行が行なわれた。 1931年(昭和6年)6月1日付けで戦艦に艦種変更された。 主缶()である(ヤーロー式缶)36基を取り外し、改良型であるロ号艦本缶の重油・石炭混焼缶を6基、重油専焼缶を4基の計10基に変更した。 水平防御の強化。 弾火薬庫上部甲板に厚さ4inのNVNC装甲板を、機関区画は缶室や機械室上の下甲板に厚さ3inのHT強度材を追加した。 砲塔支筒の円筒部装甲板と砲塔天蓋装甲板を3in増厚し、6inとした。 煙路、通風路、揚弾筒が防御甲板を貫通する部分を4inから7inの範囲で増厚した。 対魚雷と至近炸裂弾による水中弾片防御としてバイタルパート部の側外板に厚さ1inのHT材を3-4枚張り重ねた。 主缶室外側の燃料庫内に厚さ2inのHT材縦隔壁を新設した。 前後部は水防区画、中央部は燃料タンクとして用いた。 艦の幅が広くなり水中抵抗と排水量が増加したため速力は低下したが、復原性能上有効であった。 煙突を一本減らし2本煙突となった。 重油使用の増加により従来あった石炭庫の一部は油密され給油配管艤装され重油タンクとなり、このため重油搭載総量は5,000tとなり、航続距離が14ktで2,000海里延伸された。 また煙の色が薄くなるため遠方から発見される確率が低くなった。 艦橋構造を変更し檣楼頂部に射撃指揮所を設置した。 三番主砲塔の後方に水上偵察機3機搭載設備を設置した。 水中魚雷発射装置4基を撤去した。 その他艦内全般に渡り諸艤装の改正が施された。 第一次改装から第二次改装までの小改装 [ ]• 8cm単装高角砲7基を撤去し、12. 7cm連装高角砲4基を装備した。 40mm連装機銃2基を装備した。 カタパルトを装備した。 副砲の1番、2番15cm単装砲を撤去し、砲廓開口部を閉鎖した。 第二次改装 [ ] 1935年(昭和10年)6月より1937年(昭和12年)1月まで横須賀工廠で、主として機械の換装による速力増加と兵装強化が行なわれた。 機関出力は136,000馬力に上昇し、速力30. 3kt。 燃料搭載量は6,480t、18ktでの航続距離は9,800海里となり、近代的な高速戦艦となった。 従来装備していた主缶を取り外し、ロ号艦本式大型重油専焼缶8基とした。 主機械を艦本式ギヤードタービン4基に換装した。 缶配置を変更し缶室区画を廃止、燃料タンクとした。 船体抵抗に関して有利にするため艦尾を7. 4m伸長した。 凌波性を向上するため船首材を鋭利な形状に変更。 艦橋構造と関連諸室を大幅に改造。 檣楼頂部に10mを設置、射撃指揮装置を新形式の機器に換装した。 これらの機器の振動防止のため艦橋構造檣楼の背後に太い補強支柱を設置した。 後部艦橋構造を大型化し、第二煙突からの煙と熱を避けるため傾斜をつけた。 主砲仰角を33度から45度に引き上げ、これにより最大射程を28,500mから33,000mに延伸した。 副砲仰角を30度とし最大射程を延伸、砲台座と砲廓を改正した。 水中発射管を全廃、倉庫または燃料タンクとした。 40mm機銃を撤去し25mm連装機銃を10基搭載した。 その他艦内諸艤装の改正を実施し、居住性が向上した。 第二次改装から第二次世界大戦までの小改装 [ ]• バルジ内に鋼管を配置した。 磁気機雷防止のため舷外電路を取り付けた。 注排水装置を新設した。 防毒装置を新設した。 主砲塔の装甲板を増厚した。 鋼鈑に関する風説 [ ] 金剛の装甲鋼鈑には、ヴィッカースの特殊鋼板 VC鋼板なる物が使用されており、後に日本で建造された同型3艦にもこの技術は導入され、国産化されたと伝えられている。 なお後年の改装の際に「ドリルで装甲鈑に穴を開けようとすると、国産3艦はやすやすと通ったにもかかわらず、金剛だけはドリルが折れてしまうということがあった」という話が紹介されることがあり、「ヴィッカース社製の甲鈑が使用された金剛とは違い、冶金技術で劣る国産品を使用したため」と解説されることもある。 ただし、実際には比叡も全てヴィッカーズから供給された資材を使用して建造されており 、当該装甲の部位は4番砲塔とされているが真偽は不明である。 ただし、改装内容そのものが比叡とその他の3隻で異なることなど考慮されてしかるべき面もある。 比叡は第一次改装で練習戦艦とされたため、金剛のように増加装甲を取り付ける必要はなかった。 正木生虎(終戦時、海軍大佐)は少尉候補生時代に1年間金剛甲板士官を勤め、第三戦隊参謀時にも金剛に乗艦した。 父親のが竣工前金剛副長として関わっていた本艦について「金剛の出来栄えは素晴らしかったと思います」「国産三艦(比叡、榛名、霧島)は細かい所でちぐはぐな点が目についたが、金剛は違った」「(艦尾延長後)船は生き物のようなもので年老いてからでも、若かりし頃の気質をそのまま、三つ児の魂百まで、依然スマートな気持ちのよい軍艦でした。 」と回想している。 第一次世界大戦 [ ] 当時、イギリスはドイツ帝国と交戦状態にあった。 日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことから欧州への陸軍派遣と金剛型戦艦の貸与の要請を受けたが、この日英同盟は日露戦争のため結ばれていた同盟であったため、日本は遠方であることを理由に挙げてその要請を断った。 しかしドイツ軍が中国にあるを租借地として東アジアに拠点を築いたためこれを攻略するため日英同盟に従い、日本はドイツに対して宣戦布告を行った()。 これに伴い1914年8月18日、に備えて金剛は同型艦の比叡とともにに編成された。 軍縮条約 [ ] 第一次世界大戦を終えて、1921年11月11日から1922年2月6日にが開催された。 その内の軍事条約によって戦艦・航空母艦の所有数に制限が課せられた。 詳細は「」を参照 日本海軍は計画に基づき金剛と同種の巡洋戦艦を新たに8隻建造予定であったが、ワシントン海軍軍縮条約の締結によってすべて計画変更(の4隻)または計画中止(の4隻)となった。 この条約を受けて金剛は1933年には艦齢が20年に達し代艦の建造が可能となることから、の建造が計画された。 これにあわせて造船少将と造船中将がそれぞれ設計案を提出したが、1930年に開催されたで戦艦建造中止措置の5年延長が決定したため、計画は中止された。 またロンドン海軍軍縮会議での既存艦の削減を受けて、同型艦の比叡は一時的に練習戦艦となったが、日本とイタリアはで脱退を表明。 軍縮条約の期限切れを待って比叡は戦艦へと戻された。 御召艦として台湾行啓 [ ] 近代化改装後の「金剛」 時には既に現役戦艦としては艦齢のもっとも古い老艦であったが、攻防速全ての点で問題があったや操縦性に難のあるとは異なり、第二次世界大戦において活動する機会の多い艦となった。 金剛型は当初巡洋戦艦として設計されたが、第一次改装で防御の強化が行われ、垂直・水平防御は著しく強化され、改装の結果14in砲への対応防御を備えた戦艦となった金剛型は、長門型に次ぐ有力な戦艦へと生まれ変わった。 しかし、長門型以前の日本戦艦同様に全体防御方式を取る金剛型の場合は、舷側、甲板、バイタルパート部だけでなく、非バイタルパート部にまで及ぶ広範囲を防御したため、元々余裕のない装甲部分が全体的に薄くならざるを得ず、金剛型の防御は長門型と比べた場合見劣りするものであった。 ところが、金剛型は水雷戦隊とともに前衛として夜戦への参加を可能とするため に第二次改装時に機関の換装が行われた。 これにより第二次世界大戦に参加した日本戦艦では唯一30ktを超える高速戦艦となった結果、金剛型に限っては主力艦として温存するのではなく、駆逐艦並みの扱いをするようにとの意見も出された。 特に、当時の第三戦隊司令官少将(1940年11月 - 1941年9月)は、きたるべき日米戦争は局地戦の連続になると想定。 第三戦隊をあらゆる局面に積極的に投入するため『万事駆逐隊並に扱う位のつもりで鍛え上げておかねばならない』と訓戒した。 各方面の意見を集約した結果、金剛型戦艦はその性能を生かし、水雷戦隊とともに警戒部隊として機動部隊に随伴することとなった。 南方作戦 [ ] マレー沖海戦(1941年12月10日) 詳細は「」を参照 金剛型戦艦4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)は第三戦隊(司令官中将)を編制し、さらに第三戦隊第2小隊(金剛、榛名)は太平洋戦争開戦時のに参加し、南方攻略部隊の支援任務に就いた。 に進出していたイギリス海軍の旗艦 HMS Prince of Wales と対峙する事となったが、新鋭(プリンス・オブ・ウェールズ)よりも全ての点で大幅に性能の劣る巡洋戦艦金剛型2隻による砲戦は企図されず、航空隊と水雷戦隊によってイギリス艦隊を迎え撃つことが計画された。 作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはないと考え、1機の護衛戦闘機もつけず、日本側の航空機を過小評価(イタリア軍と同等以下)していたイギリス側は、この海戦の結果によって戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦 HMS Repulse を失った。 しかし、金剛型による交戦は企図されていなかったものの、実際にはプリンス・オブ・ウェールズと砲戦が可能な距離にまで一時接近していたことが作戦後に判明した。 その後、第三戦隊は金剛型4隻そろって南雲機動部隊(空母、、、、)の随伴艦となりインド洋に進出した。 3月6日、(司令官少将:蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(榛名、金剛)、第一水雷戦隊・第17駆逐隊(、、、)は機動部隊本隊から分離、へ向かった。 空母2隻の護衛に17駆第2小隊(浜風、磯風)を残すと、別働隊4隻(金剛、榛名、谷風、浦風)はクリスマス島に対し艦砲射撃を実施した。 続いて(1942年4月5日 - 4月9日)には第三戦隊として金剛型4隻揃って参加。 (1942年6月5日 - 6月7日)には、第三戦隊第2小隊(比叡、金剛)として攻略部隊に参加する。 その後6月9日から北方作戦支援へ従事した。 ソロモン諸島の戦い [ ] ヘンダーソン基地艦砲射撃(1942年10月13日) 詳細は「」を参照 ミッドウェー海戦の敗北後、大規模な艦隊編制替により第十一戦隊(司令官少将:比叡、霧島)が編制され、第三戦隊は金剛型2隻(金剛、榛名)となった。 また中将は新編の司令長官に補され、後任として中将(前職第七戦隊司令官)が三戦隊司令官に着任した。 1942年(昭和17年)8月上旬以降のに参加。 10月13日、挺身攻撃隊指揮官三戦隊司令官の指揮下、挺身攻撃隊(第三戦隊〈金剛、榛名》、第二水雷戦隊〔第二水雷戦隊司令官少将〕、第15駆逐隊〈、、〉、第24駆逐隊〈、、〉、第31駆逐隊〈、、〉)という戦力でヘンダーソン飛行場(現)を砲撃した。 同飛行場を一時機能停止に追い込んだが完全に破壊することはできず、第四水雷戦隊が護衛していた輸送船団は空襲で大打撃を受けた。 続いて(1942年10月26日)ではのガダルカナル島での総攻撃支援に従事。 (1942年11月12日 - 15日)では挺身攻撃隊(第十一戦隊、第十戦隊)や前進部隊(第二艦隊、第四水雷戦隊)を支援。 この作戦で金剛型2隻(比叡、霧島)が沈没した。 その後(1943年2月1日 - 7日)ではガダルカナル島からの日本軍撤退のための艦艇支援に従事した。 その後、第三戦隊(金剛、榛名)をふくめ日本海軍の戦艦部隊が大規模な海戦にのぞむことは暫くなかった。 1943年7月、「金剛」と「榛名」の艦載水雷艇4隻が武装されてトラックからソロモン諸島へ派遣された という。 (1944年6月19日 - 20日)では、第二艦隊司令長官中将を指揮官とする小沢機動部隊・前衛部隊(第一戦隊〈、〉、第三戦隊〈金剛、榛名〉、第四戦隊〈〔前衛部隊旗艦〕、、、〉、第七戦隊〈、、、〉、第二水雷戦隊〈、、、、、、、〉、〈、、〉)としてアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦、本戦闘で被弾した榛名の被害は重くレイテ沖海戦時でも最大発揮速力は26ノット程度だった。 捷号作戦 [ ] レイテ沖海戦(1944年10月23日 - 25日) 詳細は「」を参照 金剛はサマール島沖にて護衛空母、駆逐艦、護衛駆逐艦の撃沈に貢献したとされている。 栗田艦隊は10月22日にブルネイ湾を出撃、第三戦隊司令官少将は引続き金剛座乗、第二艦隊(第一遊撃部隊)指揮官第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)の一艦としてレイテ湾を目指した。 23日早朝にはパラワン島沖で米潜水艦2隻(、)に襲撃され、重巡「」(第二艦隊旗艦)と重巡「」が沈没、重巡「」が大破して駆逐艦2隻(朝霜、長波)に護衛されて離脱という被害を出した。 愛宕沈没後の第一遊撃部隊指揮官中将は、大和に将旗を掲げた。 10月24日、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊〈金剛、榛名〉、第七戦隊〈熊野、鈴谷、筑摩、利根〉、第十戦隊〈、浦風、浜風、磯風、、、〉)はシブヤン海の対空戦闘に参加。 アメリカ軍機は主に第一戦隊(大和、武蔵、長門)を攻撃し、戦艦が沈没、重巡も脱落という被害を受けた。 第三戦隊はほぼ無傷であった。 10月25日午前6時45分、第一遊撃部隊は沖で少将率いる第七七・四任務部隊の第三群(通称タフィ3戦隊)と遭遇。 米護衛空母群は戦艦部隊(大和、長門、榛名、金剛)の先制砲撃を受け折しも到来していたスコールへと退避するために東方へと遁走。 煙幕を展張し、7時6分から次々とスコールへと逃げ込んだ。 栗田長官率いる第一遊撃部隊は第五、第七戦隊を先頭に追撃を開始し、金剛は第五、第七戦隊に後続する形で東方へと向かった。 榛名もこれに続いたがマリアナ沖海戦での推進機類故障が直っておらず26ktしか出せず金剛との距離が離れ第三戦隊は各艦がバラバラに進撃することになった。 28ktで突撃する第七、第五戦隊の後方に続行していた金剛は7時14分に駆逐艦に砲撃を加えた後スコールに突入。 同22分には航空機からの機銃掃射を受け主砲を破損(9時に修理が完了)し、スコールに突入したことから7時25分には砲撃を中止する。 同33分にはホーエルから発射されたとされる魚雷を回避する事態もあったが、その後はアメリカ艦隊を視認し予測位置とされる東南東に向けて全速で突撃した。 同59分にスコールを脱した金剛は米空母群を南西方向に発見し、8時2分から主砲副砲による砲撃を再開したのち、同5分に今度は南方へと艦先を変え落伍していたガンビア・ベイに追い迫り、重巡部隊と共に攻撃を加えた。 同20分にガンビア・ベイは金剛主砲の至近弾による機雷効果、もしくは重巡部隊主砲の水中弾により前部機関室が浸水、速度が11ktまで低下する。 その結果金剛と重巡部隊の集中攻撃を受け同45分に航行不能に陥り、9時11分に沈没した。 金剛は8時50分に「空母一隻大火災大爆発」を報じ、射撃を中止している。 金剛は同55分に「われ一四〇度方向の空母に向かう」と報告し南東方向の空母群へと向かおうとしたが、栗田長官は位置的に近い榛名に攻撃を命じたため、金剛は南西方向の空母群へと向かった。 その途中、金剛は重巡部隊の砲撃によって40発もの命中弾を受け満身創痍の状態となった護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツと9時2分に遭遇し、これに主砲を一斉射し直撃弾を与えた。 金剛の主砲弾を前部5in砲塔と後部機関室に受け、致命傷を負ったサミュエル・B・ロバーツは同35分に総員退去を行った。 この後軽巡洋艦と第十七駆逐隊(駆逐艦、、)」からの止めの砲撃を受け、10時5分に沈没している。 しかし金剛は、サミュエル・B・ロバーツとの戦闘により空母群の追撃から脱落することになってしまった。 9時11分に旗艦大和より発信された「逐次集レ」の集結命令を同25分に受信した金剛は命令に従い北上を開始した。 午後1時28分、金剛は航空機からの集中的な急降下爆撃を浴びこれまでにないかなりの損傷を受けた。 28日ブルネイに帰投した。 サマール島沖で金剛が消費した弾薬数は以下のとおりである。 主砲=98発、211発• 副砲=170発、四式通常弾177発• 高角砲=三式通常弾薬包100発、通常弾薬包2,028発• 機銃=50,230発 なおガンビア・ベイをどの艦が撃沈したか、に関しては著書によっては異説も存在し、金剛の他に大和 、羽黒 、筑摩 、利根 などの名前が上がることもある。 金剛は海戦の戦果報告として空母一隻の共同撃沈と駆逐艦一隻の撃沈を報じており 、ガンビア・ベイの戦果を単艦ではなく共同撃沈として挙げる資料もある。 また、サマール島沖での重巡洋艦の被弾に関して、第四戦隊壊滅後に鳥海が配属された第五戦隊(司令官中将)旗艦の乗組員だった戦史研究家の石丸法明が、鳥海の被弾を羽黒の艦橋で目撃した同艦通信長元良勇、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した信号兵南里国広二等兵曹、および当時の金剛乗組員3人の証言から、『金剛による誤射があった』という説を述べている。 金剛の見張員はすぐに鳥海を誤射したことに気付いて艦橋に報告し、金剛の島崎利雄艦長は、同艦を追撃戦から脱落させた。 金剛が鳥海を誤射したことについて、羽黒では艦長、副長から厳しい箝口令が敷かれたという。 石丸によれば誤射の原因は橋本司令官の命令を待たずに突撃した鳥海の側にあったとしている。 戦艦金剛の戦闘詳報では砲戦状況について次のように記している。 「 イ 遠距離射撃 二四〇以上 今次戦闘に於いて視界不良なると共に空母の艦型よりして測的困難にして射撃効果の発揮困難なりき」 「 ロ 中距離以内の射撃 測的比較的容易となりたるのみならず概ね電測測距を利用し煙幕内に於いても敵の発砲の青白き閃光により保續照準をなし得相当の効果を収め得たるものと認む」 沈没 [ ] サマール沖海戦後の第三戦隊(金剛、榛名)はフィリピンやブルネイを転々したのち、日本本土への帰還が決定した。 戦艦3隻(大和、長門、金剛)、軽巡洋艦1隻(矢矧)、駆逐艦6隻(第17駆逐隊〈浦風、磯風、雪風、浜風〉、〈、〉)という編成である。 11月16日、艦隊は榛名や第二遊撃部隊各艦をブルネイに残置して外洋へ出た。 11月20日、駆逐艦2隻(梅、桐)が艦隊から分離して台湾の馬公へ向かった。 これにより、護衛の駆逐艦は第17駆逐隊の4隻だけとなった。 川畑(当時桐駆逐艦長)によれば、悪天候のため大和から『桐は大丈夫か』と度々心配され、台湾基隆沖合で直衛任務を解かれたという。 川畑は「もう少し(桐と梅が)護衛を続けていたら金剛も無事だったかもしれない」と回想している。 磯風乗組員によれば、金剛側に燃料補給を依頼すると『やる油はないから、後からついてこい』との返事があったという。 11月21日零時、先頭金剛、2番長門、3番大和の順で航行する日本艦隊は正体不明の電波を探知、をやめ速度をあげて現場海域を突き切ろうとした。 艦隊の先頭を矢矧が、戦艦戦隊の右舷側を浦風と雪風、左舷側を浜風と磯風が航行していたが、台風に突入したためレイテ沖海戦で損傷していた矢矧は落伍、駆逐艦も危険な状態となっていた。 シーライオンは6本の魚雷を発射し午前3時6分、12ktで航行していた金剛左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中した。 この時、長門を狙って外れた魚雷1本が護衛の第17駆逐隊司令駆逐艦の浦風に命中して浦風は轟沈、第17駆逐隊司令部、浦風の艦長以下乗組員全員が戦死している。 3隻となった第17駆逐隊は、雪風が大和と長門の護衛として現場海域を離脱。 金剛は『六・八罐室浸水、十六節、傾斜十四度』等を報告し、磯風と浜風に護衛されへ退避することになった。 鈴木司令や島崎艦長は金剛夜戦艦橋にて指揮をとった。 当時、金剛はすでに艦齢30数年と老朽化が進んでおり、レイテ沖海戦でも至近弾で浸水被害を受けていた。 魚雷命中破孔に加えての継ぎ目などからも浸水、徐々に破損箇所が広がって傾斜が増大する。 傾斜12度になり、艦長は左舷副砲指揮官兼衛兵司令の佐藤中尉を呼び、艦長公室の御真影を艦橋に移させた。 午前5時の時点でも11ktで航行しており、乗組員の誰もが魚雷2本で沈むとは考えず楽観視していたため、駆逐艦を接舷させての乗員退避は実施されなかった。 応急決死隊が潜水具をつけて作業にあたるも手遅れであり、傾斜18度で司令官及び艦長より総員退去命令が出される。 5時20分には機関が停止、10分後の午前5時30分に転覆した。 沈没直前、弾薬庫の大爆発が起きて艦中央付近にいた多くの乗員が吹き飛ばされ犠牲となった。 被雷してから沈没まで2時間があったにもかかわらず、損害の軽視、総員退艦の判断の遅れなどにより、島崎利雄艦長、第三戦隊司令官少将以下1,300名とともに沈むこととなった。 磯風、浜風は準士官以上13名、下士官兵224名、計237名を救助したとされる (浜風:准士官以上7名、下士官兵139名。 磯風:准士官以上副長以下6名、下士官兵85名)。 23日、浜風は矢矧に金剛生存者を引き渡した。 この後、第17駆逐隊は日本帰還後、横須賀へ回航される長門護衛任務につき、折り返して、を改造したの呉回航の護衛任務につくことになった。 なお金剛は、日本戦艦で唯一潜水艦の雷撃により撃沈された艦でもあった。 第二次世界大戦中に潜水艦に撃沈された3隻の戦艦の一つとなった(残りはイギリスの、イギリスのロイヤル・オークであり、いずれもイギリス製であった)。 一部連合国側戦史では、金剛を日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている [ ]。 (昭和20年)1月20日、金剛と重巡2隻(、)は除籍された。 戦後 [ ] 呉市海事歴史科学館に展示されている金剛のヤーロー缶 現在、金剛の慰霊碑は長崎県佐世保市の旧海軍墓地にある。 1930年の第一次改装で取り外された金剛のボイラーは現在に展示されており、に(未来技術遺産)第00002号に認定された。 金剛の沈没時に艦首に掲揚されていた軍艦旗は乗員によって回収され、この乗員が捕虜になった関係から一時、に接収されていたが、1969年に同国政府より返還され、海軍のOB会「黒潮会」によって管理されていた。 その後、2009年に会員の高齢化によって同会が解散した際、旗を回収した乗員の地元である福岡県飯塚市に寄贈され飯塚市歴史資料館に保存されている。 年表 [ ]• - イギリスのヴィッカース、造船所 で起工。 - 進水。 同日附で伊号装甲巡洋艦は「金剛」と命名。 - 竣工。 同日附で艦艇類別等級表に登録(巡洋戦艦)。 に回航される。 横須賀鎮守府に入籍。 - 横須賀に到着。 - における太平洋航路保護のため方面哨戒。 〜 - 第一次改装実施。 水平・水中防御を強化改善した結果、排水量が増え速度が低下したため、6月に戦艦に艦種変更された。 〜 - 連合艦隊旗艦となる。 その後はに移される。 〜 - 連合艦隊旗艦となる。 その後は陸奥に移される。 〜 - 連合艦隊旗艦となる。 その後はに移される。 〜 - 佐世保鎮守府移籍。 第二次改装実施。 ボイラーと主機を換装、また長距離砲戦能力を強化した。 機関出力は2倍になり速度は建造時を上回る30ktに達し、高速戦艦に生まれ変わった。 12月〜 開戦時ににいたイギリス海軍東洋艦隊の旗艦と対策として僚艦のとともに。 その後、空母機動部隊に随伴してに参加。 - 榛名とともにの。 10月 - に参加、サマール島沖でサミュエル・B・ロバーツを損傷、ガンビア・ベイに距離2,000mまで接近し砲撃。 - からの帰還中にで午前3時6分、アメリカ海軍のの魚雷攻撃に遭い魚雷6本中2本が金剛左舷に命中し、午前5時30分に北方で沈没した。 - 除籍。 主要目一覧 [ ] 要目 新造時計画 (1913年) 1次改装後 (1930年) 2次改装後 (1938年) 最終時 (1944年) 常備:27,500t 基準:29,330t 基準:32,200t 公試:36,314t 全長 214. 6m 222m 全幅 28. 04m 31. 02m 吃水 8. 38m 8. 65m 9. 6m 主缶 式混焼缶36基 4基 同混焼缶6基 ロ号艦本式缶8基 主機 式直結タービン2基4軸 4基4軸 軸馬力 64,000shp 136,000shp 速力 27. 5kt 26kt 30. 6cm連装砲4基 副砲 毘式15. 2cm単装砲16門 同14門 同8門 高角砲 なし 短8cm砲7門 12. 副砲廓152mm? 空白は不明。 1944年は推定を含む。 公試成績 [ ] 状態 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考 竣工時 27,580t 78,275shp 27. 54kt (大正2年)5月8日 英国クライド湾 1改装後 25. 374kt (昭和6年)8月4日 館山沖標柱間 2次改装後 30. 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日 *兼海軍艦政本部艤装員(- 1912年8月16日)• 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日• 松岡修蔵 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日• 荒川仲吾 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日• 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日• 金丸清緝 大佐:1917年12月1日 - 1918年4月9日• 大佐:1918年4月9日 - 1919年4月1日• 大佐:1919年4月1日 - 1919年11月20日• 田尻唯二 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月12日• 大佐:1920年11月12日 - 1921年11月20日• 武光一 大佐:1921年11月20日 - 1922年12月1日• 関干城 大佐:1922年12月1日 - 1923年11月20日• 大佐:1923年11月20日 - 1924年11月1日• 大佐:1924年11月1日 - 1925年12月1日• 大佐:1925年12月1日 - 1927年12月1日• 大佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日• 池中健一 大佐:1928年12月10日 - 1930年12月1日• 池田敬之助 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日• 日暮豊年 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日• 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日• 三木太市 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日• 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日• 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日• 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日• 大佐:1937年12月1日 - 1938年11月15日• 大佐:1938年11月15日 - 1939年10月20日• (兼) 大佐:1939年10月20日 - 1939年11月15日• 大佐:1939年11月15日 - 1941年4月15日• 大佐:1941年4月15日 - 1941年8月15日• 大佐:1941年8月15日 - 1942年12月26日• 大佐:1942年12月26日 -• 島崎利雄 大佐:1943年7月17日 - 1944年11月21日戦死 同型艦 [ ]• 金剛に関係した軍備計画 [ ] いずれも計画のみで実際には計画変更や中止によってほぼ実現しなかった計画である。 (、)• () 金剛のプラスチックモデルキット [ ]• 109 「日本戦艦 金剛」() ウォーターラインシリーズ。 1993年発売。 023 日本海軍高速戦艦 金剛 1944年10月()• 006 日本海軍高速戦艦 金剛 1944年10月(フルハルモデル)(フジミ模型)• 35 第二艦隊 第三艦隊 1944年 金剛・榛名セット(フジミ模型)• ちび丸艦隊シリーズ No. 3 ちび丸艦隊金剛(フジミ模型)• 07 艦娘 戦艦 金剛(青島文化教材社)• 05 日本海軍高速戦艦 金剛(フジミ模型)• 同シリーズの霧島の流用品。 1057-1087、昭和3年2月14日 内令43 艦船要目公表範囲のp. 1058では、明治45年4月2日進水となっている。 ただし、前弩級戦艦であった敷島型戦艦が工作艦として太平洋戦争に実戦参加。 この2社は1927年に合併しとなった。 長崎県佐世保市の佐世保東山海軍墓地にある金剛の慰霊碑の碑文の文字の中に「 10月25日敵機動部隊とサマール島沖にて遭遇、数千米の至近距離にて一大砲撃戦を展開、空母1駆逐艦2を撃沈せり」という一文が刻まれている。 風上が東であった。 直線的に突き進んだ他の艦艇は激しいスコールと護衛駆逐艦の煙幕に視界を奪われた。 31kmの長距離射撃をガンビア・ベイに命中させたという類のものが多い。 出典 [ ]• 1058-1059、昭和3年2月14日 内令43 艦船要目公表範囲。 3『達第百九號 艦艇類別等級別表中比叡ノ次ニ金剛ヲ加フ|大正二年八月十六日 海軍大臣 男爵 斉藤實』• 229-231• 71-83「日本初の超弩級金剛型の誕生」。 213-234「金剛型の建造」。 2『金剛 戦艦 199. 21米 28. 04米 8. 38米 基準29,330頓 速力26. 0節 短艇籔13 英国毘社 明治44-1-17 明治45-5-18 大正2-8-16 36cm…8 15cm…16 12. 7cm高角 発射管-4 探照燈6 タルビン4 艦本式10 推進器數4 馬力64,000』• 落合康夫「戦艦『金剛』行動年表」、39頁。 31『内令第五〇號 軍極秘 呉鎮守府在籍 軍艦 熊野 佐世保鎮守府在籍 軍艦 金剛 軍艦 那智 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年一月二十日 海軍大臣』• 222• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p. 133• 『日本戦艦物語1』p. 346• 6『達第五十八號 英國ニ於テ建造ノ伊號装甲巡洋艦ヲ金剛ト命名セラル 明治四十五年五月十八日 海軍大臣 男爵 齋藤實』• 5『艦艇類別等級表 軍艦 戦艦 金剛型 金剛、榛名、霧島』• 121頁• 43-44• 『日本戦艦物語I』p. 59-61「戦艦史をかざる四人の造艦設計者」• , pp. 119-120軍艦金剛廻航員に謁を賜ふ• 73頁• 18『達第五十三號 艦艇類別等級別表中巡洋戦艦ノ欄伊吹ノ次ニ比叡ヲ加フ|大正元年十一月二十一日 海軍大臣 男爵 斉藤實』• , p. 122頁• 136頁• 133頁• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p. 115「建造ドキュメント:第2章 巡洋戦艦『金剛』の建造」• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』38頁(光人社)• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』38頁(光人社)• 111頁• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p. 125• 『戦史叢書 海軍軍整備 1 』p. 610• 86頁• 田口康生「愛しの「雪風」わが忘れざる駆逐艦 海の真剣勝負に勝ちぬいた栄光の武勲艦の記録」『駆逐艦「神風」電探戦記 駆逐艦戦記』光人社、2011年、、93ページ• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』34頁(光人社)• 186-189「サマール島沖での一大追撃戦」• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』35、36頁(光人社)• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』37頁(光人社)• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』37頁(光人社)• 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』 光人社NF文庫• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』や雑誌「丸」2014年3月号『金剛型戦艦』等• 19、442頁• 443頁• 241頁• 7、381頁• 384頁• 243-245頁• 103頁• 382頁• 「」 Ref. C13072081700 参考文献 [ ]• (防衛省防衛研究所)• 軍艦金剛』。 Ref. B07090362100。 外務省外交史料館• Ref. Ref. Ref. Ref. Ref. C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2. Ref. Ref. C08030147000『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報 1 』。 Ref. C08030567100『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦金剛捷号作戦戦闘詳 3 』。 Ref. C08030037400『昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報 比島方面決戦 1 』。 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年9月。 泉江三『 軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。 著、発行人『戦藻録 明治百年史叢書 第九版』原書房、1968年1月。 小沢提督伝刊行会編『 回想の提督 小沢治三郎』原書房、1971年3月。 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。 片岡紀明『最後の海空戦 若き最前線指揮官たちの日米戦争』光人社、2003年12月。 図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第四 自明治四十五年至大正四年』株式会社ゆまに書房、2019年6月。 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。 「勝敗の分岐点」<駆逐艦「桐」艦長・川畑誠少佐の証言>• 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社NF文庫新装版、2004年。 ・・『連合艦隊・戦艦12隻を探偵する』株式会社PHP研究所、2011年12月。 『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社• 福田幸弘『連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年。 防衛研修所戦史室『海軍軍戦備 昭和十六年十一月まで』第31巻、、1969年。 防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦 2 』朝雲新聞社、1972年。 『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』文藝春秋、2009年11月。 、訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年8月。 『大英帝国の』、1997年8月。 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』学習研究社 1999年• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』学習研究社 2008年• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』光人社• 画報社、1913年11月。。 『軍艦物語』光文社カッパブックス、1973年5月。 関連項目 [ ]• (サマール沖海戦)• - でを教えていたことが縁で(大正6年)に巡洋戦艦時代の金剛へ搭乗し、その時の体験を『』に記している。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 、 無軒書屋ほか, 1931.

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