織田信行 麒麟がくる。 織田信長と帰蝶は仲が悪かった?不仲の理由や最愛の生駒吉乃との関係を考察!

【麒麟がくる人物紹介】織田信勝(信行):織田信長の同母弟。母に愛され、父・信秀の死後に斎藤義龍と結んで信長に対抗する。

織田信行 麒麟がくる

同時代史料に見えるは信行ではなく、 信勝(のぶかつ )、 達成(みちなり )、 信成(のぶなり )である。 父はの 、母はで の同母弟である。 信行は、父の信秀の生前から尾張国内に(公的文書の一種)を発給するなど一定の統治権を有した。 信秀の死後は主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い 、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。 一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが 、で敗北し、その後、信長に謀殺された。 信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている。 また、していたとされ 、の名手であったという。 本『』。 この人物は、基本史料の一つである『』においては、一貫して「 勘十郎」というで記されている。 勘十郎なる人物の実名は、の『織田系図』 などの系図類では「 信行」と記載され 、一般的にも「信行」として知られる。 しかし、信頼性の高い同時代史料では、「信行」という名を確認することはできない。 44年()、 は、花押や通称、文書内容を検討して、「勘十郎 信勝」 として一次史料に残る人物が、23年()に「勘十郎 達成」 として文書に見える人物と同一人物であると明らかにした。 さらに、達成について、3年()に「武蔵守 信成」 として文書を発給している人物とも同一人物であると比定した。 そしてこの人物が後に「 信行」と改名したと主張している。 「勘十郎」=「信勝」=「達成」=「信成」であることは、その後の研究者も踏襲している。 つまり、「勘十郎」について一次史料で確認できる実名は、「信勝」「達成」「信成」の3通りのみである。 なお、勘十郎が実名を「信勝」から「達成」に、その後に「信成」と変更した背景には、尾張守護代・の存在や稲生の戦いにおける敗北といった理由があったとされる。 (後述) このような事情から、近年の論文や書籍では、「信行」ではなく、「信勝」として表記されることが多い。 例えば、の『織田信長家臣人名事典 第2版』は項目名に「織田信勝」を 、の『織田信長総合事典』は「織田信勝(信行)」を それぞれ採用している。 このほか、 や も「信勝」という表記を使用している。 なお、すでに述べたとおり、通称として勘十郎を名乗り、官途名として武蔵守を使用しているが、これ以外に「弾正忠」を称したとも考えられている。 このように信行の名が実際に使われていたか不確かであるが、この記事では便宜上、以後も「信行」で統一する。 生涯 [ ] 「織田信勝」の登場 [ ] 父・信秀の居城であり、後に信行の居城ともなった末森城跡。 現在はとなっている。 織田信秀の三男または四男として生まれており 、織田信長はすぐ上の兄にあたる。 母も同じ信秀の正室(継室)土田御前で 、信秀の嫡出子は2人だけだった。 生年は不詳 であるが、天文5年()であるともいう。 童名は伝わっていない。 父・信秀は、織田弾正忠家の当主であり、守護代のの家臣でありながら、戦国の混乱のさなか、尾張国内に勢力を急激に拡大した人物であった。 しかし、晩年は度々美濃・三河に侵攻するもいずれも敗退し、その支配は動揺していた。 この危機にあたって、天文18年()、信秀は、那古野城主・織田信長を政務に関与させ、ここに末森城の信秀と那古野城の信長が共同で領国支配を行うという二元体制が築かれた。 天文20年()前半頃になると、信秀は病床に伏したが 、替わって登場したのが信行であった。 織田弾正忠家の領域支配を、信行は信長と共同で担うことになる。 同年9月20日、信行は、備後守信秀と三郎信長の「先判の旨」に拠りながらも、に対して自らを発給し、その権益を保証した。 これが信行(勘十郎信勝)の史料上の初見である。 領参銭等之事、誰々雖申掠候、備後守并三郎任先判之旨、不可有相違者也、仍状如件 天文廿 九月廿日 勘十郎信勝(花押) 熱田座主御坊 — 文書 この文書において、信行の使用したは、信秀の花押と類似している。 信行は、病床の信秀とともに末森城に在城しており、信秀を後ろ盾として、尾張の統治権をある程度まで掌握していた。 また、同じ頃、信長が熱田加藤氏に対して権益保証を行う判物 を発給しているが、その際に「」を担当したのも、信行であった。 によれば、この時期の信行判物と信長判物は、いずれも信秀の右筆により書かれている。 信行と信長はいずれも信秀に従属する立場にあった。 そして、信秀の存命中、信行と信長はどちらかが強い地位にあるというものではなく、その権限に大きな差異はなかったと考えられる。 父・信秀の死去 [ ] 天文21年時点の尾張の勢力図。 天文21年()3月 、父・信秀が死去した。 信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという不行跡を示したのに対し、勘十郎信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」 と記されている通り、正装をして礼儀正しく振舞っており、対照的であった。 この逸話はおおよそ事実であったと考えられている。 村岡幹生は『信長公記』において両者が対等に記されている ことに着目し、信行と信長はいずれも喪主の立場にあったのではないかと述べる。 そして、葬儀の場における信長の奇行は、弾正忠家の明確な後継者を定めることなく死去した信秀に対する不満の現れであると推測している。 信秀の死後に、当主の居城であった末森城を継承したのは、信行であった。 さらに、、、佐久間次右衛門ら弾正忠家の重臣が付されていて、信行は弾正忠家においてかなりの権勢を有していたようである。 弾正忠家の家督は信長が単独で継承したとされるが 、信秀所領の西部を信長が継承し、東部を信行が継承するという合意があったのではないかとする説もある。 この段階において、信長は弾正忠家の当主として確固たる地位を築いていたわけではなかった。 信行は、叔父の主・らと並び、信長にとっての大きな脅威となっていたのである。 とはいえ、柴裕之によれば、翌年の天文22年()7月の段階では、信長・信行の両者は協力して弾正忠家の運営にあたっていたと考えられる。 信行方の家臣である柴田勝家が、信長と敵対する織田大和守家と戦っていた からである。 弾正忠家の当主を名乗る [ ] しかし、天文22年(1553年)10月、信行は信長の関与なしで独自に判物 を発給した。 信行が港町・の豪商である加藤家のうち東加藤家にたびたび判物を発給した 一方で、信長も同じく西加藤家に判物を発給していることから、商業地である熱田の権益を巡って両者が争っていたことが伺える。 天文23年(1554年)4月頃、守護代・織田大和守家は、信長と叔父の織田信光の共同作戦によって滅ぼされた。 信光も同年11月に暗殺されて 、弾正忠家内部の争いから脱落した。 この頃、信行(信勝)は達成と改名した。 改名の時期は、残された文書から、天文22年()10月から天文23年()11月22日のあいだのいずれかの時点だと推定される。 この名のうち「達」の字は守護代の織田大和守家の当主の であり、信行もそのことを意識して改名したと思われる。 これについて、信行が、滅亡した守護代家の役割の代行を表明したという見方もある。 同じ頃、信行は官途名として「弾正忠」 を名乗った。 これにより信行は自分こそが弾正忠家の当主であるという立場をとったと考えられる。 対して、信長は尾張守護の子であるを擁立した。 こうして信行と信長は対決の道を進んだ。 守山城をめぐる争い [ ] 弘治元年()6月、弟・が叔父・の家臣・に誤殺された。 それを聞いた信行は、信次の居城・の城下を焼き払わせた。 これに対して信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」と言って 、信次を処罰しようともしなかった。 この対応の違いにも、信行と信長の対立が見て取れる。 信次は逐電したため、守山城主の地位には、信行の兄弟 である(信時ないし秀俊)がついた。 安房守は信長方の人物だったと考えられる。 ところが、時をおかずに、翌年の弘治2年6月頃、安房守は横死してしまった。 安房守を死に追いやったのは守山城年寄衆・であった。 しかし角田は全く処罰を受けておらず、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、安房守謀殺に信行が関与していた可能性が指摘される。 前々年の叔父・信光の殺害に続き、安房守も死去したことで、織田弾正忠家内の覇権争いに生き残ったのは、信行と信長の2人となった。 稲生の戦い [ ] 「」および「」も参照 2年()4月、信長の岳父であり支援者でもあったの戦国大名・が自身の嫡男・との戦に敗れて死去した。 義龍は、もう一つの守護代家・岩倉織田家などの信長の敵対勢力の支援に動き 、信長は苦境に立たされた。 同じ頃、未遂に終わったものの、信行派のらが信長を殺害しようとした事件もあった。 同年8月、信行は・林美作守・らとともに、信長と敵対する旗幟を鮮明にした。 信行らは、信長の直轄領である篠木三郷をしようとした。 この動きに対し、信長はを築いて自派の佐久間大学を入れ、牽制を図った。 信行方の柴田勝家らは名塚砦への攻撃に打って出て、信長がこれを迎え撃った。 8月24日、両者は稲生で激突する。 結果、柴田勝家は敗走し、林美作守は討ち取られて、信行方が敗北を喫した。 敗れた信行はに籠城する。 信長は末森城に攻め寄せたが、このときは母・土田御前の取りなしにより、林秀貞、柴田勝家共々、信行は赦免された。 最期 [ ] から、篠木三郷のあった春日井市を望む。 稲生の戦いにおける敗北を境に、信行が「弾正忠」を名乗ることはなくなった。 信行は勢威を大きく後退させ 、「武蔵守信成」と改名している。 しかし、信行はその後も信長に対する敵意を持ち続けた。 翌年の弘治3年(1557年)4月、美濃国の斎藤高政(義龍)は、信行に書状 を送っているが、この書状は信行に対して再度の決起を促す意図の文書だった可能性があるという。 また、独自の判物発給 も継続して行っていた。 永禄元年(1558年)3月、信行はの築城 を始めた。 これはの戦国大名・に対する防御のためだったとも、信長に対して備えるためだったとも考えられる。 いずれにせよ、信長にとって、信行が敵対勢力と提携する危険は無視できないものだった。 同年中 、『信長公記』 によれば、信行は、のに通じるなどして謀反を企てた。 信行は再び篠木三郷をしようとしたが、柴田勝家がこれを信長に密告した。 『信長公記』 によれば、信行は若衆のを重用し、勝家を蔑ろにしていたのである。 信長が仮病を装うと 、信行は11月2日にへ見舞いに行き、そのまま誘殺されてしまった。 信行という脅威を除いた信長の勢力は飛躍的に拡大し 、信行殺害からわずか数か月後、信長は守護代家の岩倉織田家打倒に成功した。 すでに守護家の斯波義銀も追放されていたため、尾張の守護・守護代体制は完全に解体され、信長が同国の大半を支配することとなった。 信行の子の坊丸(後の)は助命され、長じてからは信長の有力武将として活躍した が、に際しての娘婿であったことも相まって謀反を疑われ、信長の三男・に討たれた。 ただし信澄の子のは生き延び、最終的にのとなった。 人物 [ ] 信行がどのような人物であったかを伝える史料は乏しい。 信行は美濃国の白山社に仏像を寄進しており、その銘の写し が残っている。 このことから、父・信秀が深く帰依していたを、信行もまた受け継いでいたとされる。 新井喜久夫は、信行の人物像を示す逸話として、の僧侶・が天文24年に残した言葉 を紹介している。 沢彦宗恩の言によれば、信行はを飼いならしており、百舌鳥を用いた珍しい鷹狩を好んだ。 獲物を逃してしまうことは決してなく、非常に高い腕前を誇っていたという。 関連作品 [ ] 小説• 『信長の弟 織田信行として生きて候』(、2017年-2018年)• 『嵐を呼ぶ男!』(、2019年) 映画• 『』(1940年、演:) テレビドラマ• 『』(1973年、、演:)• 『』(1988年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(1989年、、演:)• 『』(1992年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(1994年、、)• 『』(1996年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(2002年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(2006年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(2014年、、演:)• 『』(2020年、NHK大河ドラマ、演:) 役名は織田信勝。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• この点、『定光寺年代記』には信行(信勝)が永禄元年(1558年)3月にで築城を開始したとの記載もあり 、谷口克広によれば、「武蔵守信成」(すなわち信行)が弘治3年11月25日付けで判物を発給 していることから、殺害の日付は永禄元年(1558年)11月2日が正しいと考えられるという。 下村信博 、柴裕之 、池上裕子 といった研究者のいずれもが永禄元年説を採用しており、今日では同説が最有力である。 名誉教授。 天文23年11月22付織田達成判物写(『名古屋叢書 続編』所収の『』に文書の写しが残る )。 なお、写では、「十」の字には「重」が当てられており「勘重郎」となっているが、「勘十郎」と相違ないと考えられる。 しかし、『信長公記』の記述によれば、安房守は信秀の次男となり、信長・信行の兄ということになる• ただし、信行の弟であるも土田御前所生であると推測される。 4月10日付織田信長判物「加藤家文書」(『』史料番号1828号)。 ただし、村岡幹生は、右筆が同一であることについて否定的な見解を述べている。 信秀の死去の時期についてはいくつかの説があったが、2011年現在は、天文21年3月であることが定説となっている。 『』首巻9、pp. 23-25. 『』首巻9、pp. 23-25. ただし、谷口克広はこの推測を否定している。 村岡幹生は、むしろ弾正忠家の主流を継承したのは信行だったのではないかと述べている。 村岡幹生は、『信長公記』首巻の「末盛の城勘十郎公へまいり、柴田権六・佐久間次右衛門、此外歴々相添へお譲りなり」という記述について、信長が末森城の信勝に家督を譲ったという意味だと解する。 しかし、谷口克広によれば、当該の記述で信長が譲ったのは家督ではなく「末森の城」である。 『』首巻15、pp. 34-35• ただし、これを柴田勝家の単独行動とみなし、弾正忠家はすでに統一した対応がとれていなかったという見解もある。 天文22年10月付織田信勝判物「加藤影実氏所蔵文書」(『』史料番号1883号)。 ただし、からを受けたのではないかと指摘する者もいる。 なお、竜泉寺築城については『信長公記』にも「上総介信長公の御舎弟勘十郎殿、竜泉寺を城に御拵なされ候」(『』首巻25、pp. 59-60. )とある。 『』首巻17、pp 38-40. 谷口克広は、主将自らが戦った信長と末森城に籠もったままの信行では、勝負にならないと評している。 4月19日付斎藤高政書状「所蔵文書」(『』史料番号2052号)。 59-60. 殺害の実行犯については、『信長公記』によると、信長が「河尻・青貝」に命じたという(『』首巻25、pp. 59-60. 河尻はとされるが、青貝については他に事跡が伝わっていない。 『信長公記』我自刊我本では「河尻青貝」と繋げて書かれており、一人の人物である可能性もある(谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(1995、吉川弘文館)「青貝某」p. 1による)• なお、信行に関係する史料の一覧を柴裕之が作成している。 仏像光背銘写「真鏡」(『』史料番号1871号• なお、熱田神宮にも菅原道真画像を寄進している。 菅原道真画像墨書銘(熱田神宮所蔵、『』史料番号1876号)。 出典 [ ]• 573• 118. 154. 111-112. 7-8. , pp. 14-18. 244-245, 織田信長の登場• 30-33, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• 163-164. 89-91, 織田系譜に関する覚書• , p. 29, 総論 戦国期尾張織田氏の動向. 14-15. 29-33, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• 116. , p. , p. 120. 5-6. 27-29, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• , pp. 28-30, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• 30, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• 193-196, 織田信秀の尾張支配• 89-91. 8-9. , p. 30-31, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• , p. 31, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• 32, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• , p. 178-179. 96-97. 253-254, 織田信長の登場• , pp. 252-254, 織田信長の登場. 254-255, 織田信長の登場• , p. 179. , pp. 180-181. 32-33, 総論 戦国期尾張織田氏の動向• , pp. 18-19. 19-20. , pp. 182-183. , p. 255, 織田信長の登場. , p. 33, 総論 戦国期尾張織田氏の動向. , p. , p. 128. , pp. 98-99. 120-121, 織田信澄. 参考文献 [ ] 史料• 『中世3』、〈愛知県史 資料編10〉、2009年。 著・・校注『信長公記』〈角川ソフィア文庫〉、1969年。 東京大学史料編纂所. 2018年9月9日閲覧。 堀田正敦 『 第3輯』 國民圖書、1923年、573頁。 国立国会図書館デジタルコレクション。 『織田信長』吉川弘文館〈〉、2012年。 『織田信長総合事典』 雄山閣出版、1999年、116-120頁。 ; ; ; 「総論 戦国期尾張織田氏の動向」「織田系譜に関する覚書」「織田信秀の尾張支配」「織田信長の登場」、柴裕之編 『尾張織田氏』 岩田書院〈論集 戦国大名と国衆6〉、2011年。 新井喜久夫執筆部分の初出:『清洲町史』、1969年。 鳥居和之執筆部分初出:『研究紀要』19号、1996年。 下村信博執筆部分の初出:『新修名古屋市史』2巻、1998年。 「織田信長の兄弟と息子の出生順」『愛知県史のしおり』〈愛智県史 資料編11〉、2003年。 谷口克広 「織田信勝」 『織田信長家臣人名辞典 第2版』 吉川弘文館、2010年、111-112頁。 谷口克広 『天下人の父・織田信秀 : 信長は何を学び、受け継いだのか』 祥伝社〈祥伝社新書〉、2017年。 「スムーズではなかった、信長の「家督相続」の現実」『信長研究の最前線2』・、洋泉社、2017年。 西ヶ谷恭弘 『考証織田信長事典』 東京堂出版、2000年、119,125-128頁。 『信長政権』河出ブックス、2013年。 雑誌論文• 「今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝」『愛知県史研究』第15号、愛知県、2011年、 1-23頁、。

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織田信長と帰蝶は仲が悪かった?不仲の理由や最愛の生駒吉乃との関係を考察!

織田信行 麒麟がくる

土田御前と息子の織田信長・織田信勝(信行)の関係を家系図から解説! まずは簡単に織田家の家系図を確認しておきましょう。 土田御前(どだごぜん)は、織田信秀の継室(正室と離縁した後の妻)として4人の息子と2人の娘をもうけました。 織田信長はその二人の最初の息子として1534年に生まれ、続いて1536年に弟・信勝(信行)が生まれました。 当時は一夫多妻でしたので、信長の異母兄弟は数多くいて兄となる人物もいますが、家督は継室の子供である信長が継ぐことになりました。 母の土田御前はなぜ織田信長を嫌い弟の織田信勝(信行)を可愛がったか理由を考察! 母である土田御前は、実の息子の信長のことは嫌い、弟の信勝を溺愛したといいます。 ではなぜ信長を嫌い、弟の信勝を溺愛したのでしょうか?その理由について考えてみました。 土田御前は「うつけ者」織田信長を許せず、品行方正な織田信勝(信行)を可愛がった 一般的に言われているのは、いわゆる「うつけ者」と言われる信長の格好や破天荒な振る舞いが、土田御前にとっては不快で許し難かったということです。 その反面、弟の信勝は身なりもきちんとして品行方正そのものだったので、こういった信長とはまるで反対の信勝が良く思えたのでしょう。 土田御前の出生については不明な点も多く定かではありませんが、一説には鎌倉時代からの伝統ある六角氏の子孫の土田正久という人物の娘だったとも言われており、もしかすると伝統や礼節を重んじる家系の出身だったのかもしれません。 そうした生い立ちから、信長の破天荒な性格や行動は受け入れられず、対象的な信勝の方が良くみえたのではないでしょうか。 織田信長は幼少期から平手政秀に育てられたから 信長は父・信秀の跡を継ぐ為に、幼少期から守り役の平手政秀に育てられました。 その為、信長は母・土田御前と過ごす時間も限られてしまい、必然的に土田御前が側にいる信勝の方を可愛く思うようになるのはわかる気がします。 平手政秀の元に預けら離れて暮らす兄の信長よりも、近くにいる弟の信勝の方が可愛く思う。 これがひとつの要因ではないかと思います。 織田信長が弟の織田信勝(信行)を殺害するまでの関係悪化の経緯や理由を考察! さて、母である土田御前の偏った愛情のせいか、二人の父・信秀が亡くなると、跡継ぎをめぐって対立するようになります。 そして最終的には信長が信勝を殺害してしまうのですが、なぜそこまで関係が悪化したのか経緯や理由を考察しました。 織田信長が織田信勝を殺害するまでの経緯 1552年、二人の父・織田信秀が亡くなると兄の信長が家督を継ぎます。 しかしそれを不服に思った信勝は、自らが跡継ぎだと言わんばかりに代々当主が名乗ってきた「弾正忠」を名乗るなど、信長との対立姿勢を鮮明にします。 1555年、二人の叔父にあたる織田信次の家臣が、二人の実の兄弟である秀孝を誤って殺害してしまう事件が起こりました。 この件について信勝は激怒して報復を行いましたが、一方の信長は「弟の秀孝にも非がある」として信次を許しました。 この一件により、親族のつながりを尊重した信勝を当主とすべきと考える家臣が増えました。 翌1556年、信長の義理の父である斎藤道三が息子の義龍に殺害されるという事件が起きます。 これによって信長は斎藤道三という大きな後ろ盾を失うと、信勝は今がチャンスとばかりに柴田勝家らを率いて信長に対して挙兵します。 「稲生の戦い」と呼ばれるこの戦いは信長の勝利で終わり、本来なら謀反を起こした信勝は切腹でもおかしくないところですが、母・土田御前の懇願により許されたのでした。 ところが、その後も信勝は津々木蔵人などを使って再び信長打倒を企てます。 しかしこの信勝の企ては信長に忠誠を誓った柴田勝家の密告により信長には筒抜けでした。 信勝の不穏は動きを知った信長は、やられる前にやってしまおうと一計を案じます。 1558年11月、信長は「病にかかったから最期に見舞いにきてほしい」と言って信勝と土田御前を居城の清洲城に招き、やって来た信勝を家臣に命じて殺害しました。 ちなみに兄弟で争った「稲生の戦い」については下記の記事で解説していますので、こちらも参考にしてみて下さい。 織田信長と織田信勝はなぜそこまで関係が悪化してしまったのか このように、信長と信勝は実の兄弟でありながら殺し合いをするほど関係が悪化してしまったわけですが、 その大きな要因は母・土田御前の偏った愛情によるものだと考えられています。 土田御前の「信長憎し」の強い思いが信勝にも伝播し、その思いに取り憑かれていたようにも思えます。 「実の弟を殺害した信長は恐ろしい」という印象も受けますが、挙兵して敗北したものの一度は許されたにも関わらず、すぐさま謀反を企てた信勝の執念深さも見過ごせません。 土田御前と信長・信勝親子の関係は様々な描かれ方をしますが、大河ドラマ「麒麟がくる」ではいったいどのように描かれるのかも見どころのひとつですね。 「麒麟がくる」では染谷将太演じる織田信長と檀れい演じる土田御前の関係も見どころ 大河ドラマ「麒麟がくる」では、染谷将太演じる織田信長も登場し、従来の織田信長像とは異なる温和なイメージで話題になっていますね。 でも第9話で竹千代(のちの徳川家康)の父・松平広忠の首を織田信秀に差し出すシーンでは満面の笑みを浮かべていて、今までの信長とは違った恐ろしさの片鱗を見せていました。 一方、とても美人だったと言われる土田御前は檀れいが演じていて、このキャスティングには多くの人が納得していますね。 今後、父・織田信秀の死によって織田信長と土田御前の関係はこじれていくことになるわけですが、その二人を演じる染谷将太と檀れいの関係にも注目ですね。 さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。 登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。

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2020年大河ドラマ「麒麟がくる」キャスト・出演者リスト一覧表

織田信行 麒麟がくる

長谷川博己主演のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK総合/毎週日曜20時ほか)の第18回「越前へ」が17日に放送され、染谷将太演じる信長が涙を流しながら弟に死を迫る姿に、ネット上には「この信長、怖すぎ」「ドキっとするくらい怖い」などの反響が巻き起こった。 斎藤道三の死は、織田家にも大きな影響を及ぼすことに。 信勝(木村了)は斎藤高政(伊藤英明)と通じ、家督を継いだ信長(染谷)に対して謀反を企てていた。 信長は自身が病に臥せっていると偽り信勝を清洲城に呼び寄せる。 しかし信長は「そなたを呼び寄せ、討ち果たすために偽りを申した」と告げた上で、母が悲しむから殺す気が失せたと明かす。 そして信長は、自身とは正反対で出来の良い信勝への嫉妬心を朗々と語っていく。 すると信勝も兄・信長へ抱いていた嫉妬心を打ち明け「兄上さえいなければ…」ともらす。 この言葉に信長は「それゆえ、高政と手を結んだか…?」と応じると、目から一筋の涙を流しながら不気味な笑顔を浮かべ「我らは似た者同士ということかぁ」とつぶやく。 染谷演じる信長が弟を追い詰める姿に、ネット上には「ここで涙を一筋流せるって、なんなの…」「信長の怖さよ…この虚ろな目が狂気」といった声が集まった。 たじろく信勝を見つめながら信長は「どうした? 飲んでみよ」と要求。 「どうかお許しくださいませ…」と観念する信勝に対して、信長は感情を押し殺しながら「飲むんじゃあ…」とささやきかける。 その直後、信長は立ち上がり大声で「飲めぇ! お前が飲めぇえ!」と怒鳴り上げ、怒りを爆発させる。 信勝に死を迫る信長の姿に、ネット上には「この信長、怖すぎ」「ほんと怖い。 説得力ある」などのコメントが相次ぎ、さらに「染谷さんの信長、ドキっとするくらい怖い顔をする」「染谷将太の圧巻の演技」といった投稿も寄せられた。

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