バーナム。 バーナムピアノテクニック【1巻・導入書・ミニブック 】写真で比較

P・T・バーナム

バーナム

さて、 この『グレイテスト・ショーマン』は、 実は、 史実が元になった伝記映画でもあります。 ヒュー・ジャックマン演じる P・T・バーナムは、 「 地上でもっとも偉大なショウマン」 と呼ばれた、 実在の興行師なのです。 映画の内容は、 主人公P・T・バーナムが、 一風変わった人たちを集めて、 いわゆる「 フリーク・ショー」を始めるというものです。 ただ単に、 「 主人公が人を集めてサーカスを始める話」 とまとめることができない、 デリケートな話題を含む映画なのです。 このような内容の映画ですが、 どれぐらい忠実に史実が元になっているのでしょうか? また、 実際のP・T・バーナムはどのような人物だったのでしょうか? 以下、 これらの点についてまとめていきますが、 伝記映画の 史実について書いていきますから、 映画の内容にも踏み込んで書かざるを得ません。 映画をまだ見ておらず、 話の内容を知りたくないという場合は、 この先は読まないようにしてください。 スポンサードリンク P・T・バーナムはどんな人だったの? まずは、 実在したP・T・バーナムはどのような人生を送ったのかを 見ていきましょう。 重ねての注意になりますが、 まだ『グレイテスト・ショーマン』を見ていない人は、 以下ネタバレありですので、 映画を観てから読んでください。 興行師になる前 1810年7月5日:誕生 フィニアス・テイラー・バーナム Phineas Taylor Barnum は、 アメリカ合衆国コネチカット州のベサルに生まれます。 父親は、 映画では 仕立て屋という設定でしたが、 実際は、 宿屋兼商店を営んでいました。 バーナムは12歳から 雑貨店の事務員として働き始め、 新聞配達、 宝くじ売り、 聖書の訪問販売など、 様々な仕事を経験します。 映画でのバーナムの仕事は、 少年時代は父親の仕立て屋の仕事の手伝い、 父親の死後は乞食のような生活を経て、 鉄道会社の社員でした。 このエピソードは映画にはありませんでした。 映画では、 鉄道会社を解雇になったこと、 銀行員をダマして借りたお金で作った 「死んでいるもの」ばかりを展示した博物館に 全く人が入らなかったことが、 興行師を始める前のエピソードとして描かれました。 興行師になる 1835年:ジョイス・ヘス この年、 興行師としてのキャリアをスタートします。 当時、 160歳を超えているという噂があった ジョイス・ヘスという名前の黒人奴隷の女性を 使って、 興業を成功させました。 ジョイス・ヘスは、 1732年から1799年に生きた アメリカ初代大統領である ジョージ・ワシントン の元乳母であるという噂が流れていたのですが、 実際は、 1936年に死亡したときにまだ70歳にもなっていませんでした。 「大抵の人間は、大抵の場合、騙せる」 と言ったとか言わなかったとか。。。 とにかく、 このエピソードは、 映画では描かれませんでした。 1841年:バーナムのアメリカ博物館 「 スカダーのアメリカ博物館」を買い取り、 「 バーナムのアメリカ博物館」を開業します。 これはまさに全く同じ話が映画にもありました。 ただ、 映画の場合はまだ興行師にはなっておらず、 開業当初は、 「死んだものばっかり展示している」博物館でした。 1842年:親指トム将軍 「 親指トム将軍」こと チャールズ・ストラットンが大ヒットします。 また、 伝統的なダンスを踊る インディアンのダンス団 「 フー・フム・ミー」も評判になりました。 映画では、 「フー・フム・ミー」はキャラクターとして ハッキリ描かれませんでしたが、 「親指トム将軍」は、主要キャラクターとして活躍しました。 映画版のバーナムの興行師としてのキャリアは、 この「親指トム将軍」から始まりました。 イギリス、ロンドンの メイフェアという 貴族の邸宅が立ち並ぶ地区に家を借り、 貴族たちを家に招いて「親指トム将軍」を紹介、 貴族の間で話題となり、 ヴィクトリア女王からの招待状を受け取るのです。 映画のバーナムは、 グイグイ突き進んでいく人物として描かれていましたが、 実際、 バーナムは相当なやり手だったようです。 プロデュースする 1850年:ジェニー・リンド 「 スウェーデンのナイチンゲール」と呼ばれた、 スウェーデンの女性オペラ歌手 ジェニー・リンドの アメリカツアーを企画、運営します。 ツアー途中で契約を破棄されてしまうのも史実通りです。 映画も、史実も、 契約解消の明確な理由は分からず、 想像するしかありません。 引退に向かって 1855年:引退 興行師を引退します。 1857年:復帰 債務の支払いに追われ、興行師に復帰します。 この興行師引退・復帰に関しては、 映画では全く触れられていません。 1872年:サーカス列車 規模が大きくなり、馬車での巡業が困難になったため、 サーカス業界初の興業列車を立ち上げます。 このサーカス列車は、 映画には出てきませんが、 その代わり、 火事で建物が焼けてしまった後、 テントで興行を再開するシーンがあります。 この火事については、史実にもあります。 しかも、 火事は 2回起こっています。 1865年に起こった1回目の火事で 焼けてしまった「 バーナムのアメリカ博物館」を バーナムが 再建した後、 1868年に2回目の火事が起こり、 「 バーナムのアメリカ博物館」は やはり 焼けてなくなってしまいました。 1881年:バーナム・アンド・ベイリー・サーカス ジェームズ・ベイリーが経営していた 「 クーパー・アンド・ベイリー・サーカス」と合併して、 「 バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」となりました。 映画のラストでは、 パートナーを組んでいたフィリップ・カーライルに 興業主の座を渡すようなシーンがあります。 このシーンは、 史実のサーカスの合併に近いイメージのイベントですから、 もしかすると多少意識して脚本が書かれたかもしれません。 どちらにしても、 史実通りではありませんから、 意識していようがしていまいが、 大きな違いはありませんけれど。 1891年:死去 フィニアス・テイラー・バーナム、死去。 結婚について 映画では、 バーナムは、仕立て屋の手伝いをしていた幼き頃に知り合った 名家の令嬢であるチャリティ・ハレットと結婚します。 これは史実通りです。 しかし、 残念なことに ? 、それは 1873年までのことで、 その後、 1874年からバーナムが亡くなるまでは、 ナンシー・フィッシュという別の女性と結婚していました。 スポンサードリンク おわりに ここまで見てきて、 『グレイテスト・ショーマン』の脚本は、 史実を上手く取り入れながら書かれていると感じます。 P・Tバーナムについて調べるまでは、 もっと創作の部分が多い映画なのだろうと予想していたので、 物語の大きな流れがほぼ史実通りなことが意外でした。 こうして、 映画と史実とを見比べてみると、 映画を作るときにどこに脚色を入れたのかがよくわかります。 そうすると、 「 なぜ?」と思う部分がでてきます。 たとえば、 映画のメインキャストで 史実に存在しないのは、 ザック・エフロン演じる フィリップ・カーライルと ゼンデイヤが演じる アニーです。 なぜ、このふたりが映画に必要だったのでしょうか? このように、 映画と史実とを比較した時に見えてくる 「なぜ」を問うことも、 映画を観終わった後の楽しみとして面白いのではないでしょうか。 最後は、 映画のラストでも映し出された P・Tバーナムの言葉で締めくくりましょう。 「最も崇高な芸術とは、人を幸せにすることだ」 初めまして。 コメント失礼します。 「The Greatest Showman」についての比較記事すべて拝読させていただきました。 私自身、今現在「The Greatest Showman」の映画と「P. バーナム」についての比較に関する卒業論文を執筆する予定でして、今まさに映画との比較のための参考文献を探索している最中なのですが、こちらの記事を読ませていただき、自分が知りたくても、どう検索しても出てこない情報がわかりやすくたくさん詰まっていて大変参考になりました。 この度、より深く忠実と映画での比較を自分自身で行いたいため、「The Greatest Showman」に関する記事を執筆する際に参考にした文献などございましたらぜひ教えていただきたく思います。 主に「P. バーナム」について忠実に書かれているものなど お手数ではありますが、ぜひご検討のほどよろしくお願い致します。 はじめまして。 管理人のkumaです。 コメントに気づかず、返信が遅くなってしまい、申し訳ございません。 記事を読んでいただき、ありがとうございます。 必死になってまとめたことが報われたようで、大変うれしく思います。 さて、私が書いた『グレイテスト・ショーマン』に関するいくつかの記事ですが、 基本的にはインターネット上にある記事を参考にして書いたものです。 質問者さんが特に知りたいと仰っているバーナムに関する情報に関しては、 私も相当調べましたが、詳しくまとまっているサイトはありませんでした。 ポツリポツリと点在する情報をひとつひとつ拾っていってまとめたのが私が書いた記事です。 私が調べた中では、バーナムについて最も多くの情報がまとまっているのはWikipediaでした。 残念ながら、その他の参照したサイトのURLは、記録に残していなかったためわかりません。 論文にまとめるのであれば、文献に当たりたいところだと思いますが、 詳しくまとまっている本は残念ながら私も知りません。 「PTバーナム 本」と検索すると、英文で書かれた本がいくつか出てくるので、 もし英語に抵抗がなければそちらを読んでみるといいかもしれません。 邦訳されているものだと、『富を築く技術』という本があります。 これはバーナム自身が書いた本ですので、自身のことについても書かれているかもしれません。 私は未読です。 私が参照したのは、『なぜハーバード・ビジネス・スクールでは営業を教えないのか?』です。 この本の中でバーナムの話が少しだけ取り上げられています。 あまり参考になることをお伝えできなくて申し訳ないのですが、 良い卒業論文が書けるよう応援しています。

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映画グレイテストショーマンのバーナムは実在の人?映画と史実の違いを解説!

バーナム

ミュージカル映画「グレイテスト・ショーマン」はアメリカでサーカスビジネスの初期に 活躍したP・T・バーナムという実在の人物をモデルにした作品です。 そこで少し気になったこのP・T・バーナムは、一体本当はどんな人物だったのでしょうか? 調べてみましたので、御覧ください。 関連記事: 関連記事: 関連記事: 関連記事: 関連記事: 関連記事: 目次• 実は映画のように貧しい生まれではなかった P・T・バーナム、本名はフィニアス・テイラー・バーナム。 コネチカット州で1810年に生まれています。 父親は映画のとおり、フリオ・バーナムでP・Tが16歳の時になくなっていますが、 仕立て屋だけでなく店主として店も持っていました。 また母方の祖父は地主で判事という名士で、P・Tをかわいがっていたという話が伝わって います。 そういった家族がいるP・Tが父親の死とともにホームレスになる、というのはどうやら 作り話のような気がします。 実は見世物小屋を始める前に幾つかの事業を起こしていた P・Tは興行主になる前に幾つかの事業を起こしています。 最初は父親同様、雑貨屋の店主をし、その後、書籍のオークション、不動産投資、また、 その当時アメリカで流行していた私的宝くじなどに手を出します。 P・Tの人物評として数字にとても強かったものの、肉体労働は毛嫌いしていたと言われて います。 その特徴を活かすような仕事を次々と手がけており、かなりの行動家であったことも うかがい知れます。 更には地方新聞の創刊をしましたが、その記事内容に関して名誉毀損の訴えを起こされ、 2ヶ月の投獄という結果になってしまいました。 1834年にコネチカット州で私的宝くじの販売が禁止される法律が制定され、主の収入源を 絶たれることになって、P・Tは店を売り、ニューヨークに移り住むことにるのでした。 サーカスの団長というより興行主。 話題作りの天才。 彼が25歳のとき、初めて興行主としての事業を行います。 盲目でほとんど麻痺した状態の黒人女性奴隷ジョイス・ヘスを買い取り、かつての ジョージ・ワシントンの元乳母で161歳という触れ込みで見世物としたことでした。 当時のニューヨークでは人間を奴隷とすることは違法の行為でしたが、P・Tは法の抜け 道を駆使して、違法スレスレの行為をビジネスとしたのです。 翌年の2月にジョイスは亡くなりますが、死の直前までP・Tは彼女を1日10時間から 12時間も働かせていたのでした。 そして死後、公開解剖検査を主催し、見物人からその当時のお金で一人50セントで見学させ、 ジョイスがどんなに年取っていても80歳以上ではないことを証明してみせたといいます。 時代が時代とは言え、年老いた奴隷をこき使い、その死後に公開解剖を催して見世物に するというのは、とんでもない非人道的な行為で、間違いなく映画では取り扱えない ような内容です。 スポンサードリンク 1837年恐慌とその後の奇人変人ショーの成功 あまり知られていませんが、1837年から1844年の間、アメリカはデフレーションによる 恐慌に見舞われていました。 これが映画でP・Tが働いていた会社が倒産し、家族にも厳しい生活を送らざるをえない という表現で表されていた頃かと思われます。 映画同様、P・Tは1841年にマンハッタンの中、ブロードウェイとアン通りにある博物館を 購入し、これをバーナムのアメリカ博物館と命名します。 人の目を引くように、昼間はたくさんの旗をなびかせ、夜は灯台の光でブロードウェイの 通りを照らさせたり。 また映画のように展示物やショーの登場人物の大きな絵を建物の外に飾って宣伝したり、 エアバルーンを上げたりもしたそうです。 最初の奇人変人ショーとしての見世物はフージー人魚という猿の頭、魚の胴体を持つ 生き物でした。 これは日本人船員から買い取ったというジャベリンモンキーという猿の上半身を魚の 胴体に縫い付けた代物だったそうです。 その次の見世物として登場したのは親指トム将軍のチャールズ・ストレイトンでした。 映画ではかなりの青年として登場していましたが、実際にP・Tの博物館で見世物になって いたときのチャールズの年齢は4歳でした。 史実では11歳という触れ込みで見世物となっていましたが、4歳の時点で生後6ヶ月から 2. 5センチメートルしか成長しておらず、身長は66センチだったそうです。 4歳のチャールズは厳しいトレーニングと天性の素質でヘラクレスやナポレオンに扮して 観客をわかせ、5歳の時にはワインを飲み、7歳のときには葉巻を吸っていました。 その他、映画には登場しませんでしたが、アメリカインデアンのダンサー団体「フー・ フム・ミー」を作り上げ、伝統的なダンスを踊らせて人気を博したこともあります。 映画でビクトリア女王との謁見をしていますが、史実でも確かに謁見しています。 しかし実際に謁見したのはP・Tとチャールズの二人だけで、映画のようにパフォーマー 全員を連れて、というわけではありませんでした。 これは「親指トム将軍」のヨーロッパツアーの一環での出来事で、このツアーで チャールズはヨーロッパ中に知られることになるほど、有名人になったのです。 ジェニー・リンドのアメリカツアー ジェニー・リンドは実在したスウェーデンのオペラ歌手で、映画同様P・Tによって アメリカツアーを行い、大成功を納めます。 親指トム将軍のヨーロッパツアーの最中、ジェニー・リンドと出会い、すでに 「スウェーデンのナイチンゲール」として名声を確立させていましたが、それは逆に ヨーロッパにおいてこれ以上の成功の余地はないところまで来ていました。 これまた映画同様、P・Tはジェニーの歌を聞いたことがなく、歌唱ショーの経験も ありませんでしたが、1番の公演につき1000ドル、ツアー全部で150夜という条件で ジェニーをアメリカツアーに誘います。 経費はすべてP・T持ち、ジェニーからの前金の要求を受諾し、交渉は成立。 こうしてジェニー・リンドのアメリカツアーが行われることになりました。 しかしその莫大な出費に対し、P・Tは映画であった豪邸だけでなく、いくつか持っていた 博物館も抵当に入れての融資を受けて費用を工面していたそうです。 P・Tがアメリカに戻って後、ジェニー・リンドの宣伝キャンペーンを大々的にしておいた お陰で、数カ月後にジェニーがアメリカに到着すると、ショーの公演をまだしていない のにも関わらず、すでに大人気となっていました。 4万人が到着の港に押しかけ、2万人が宿泊するホテルで出迎えたそうです。 最初の公演は1850年9月11日に行われ、大成功に終わりました。 P・Tは投資した4倍の リターンを手にしたそうです。 ジェニーの人気は行く先々で大きいものになっていき、チケットの入手はとても困難な ものになりました。 P・Tはそれらのチケットをオークションで販売したそうです。 「リンダマニア」という造語まで作られるほどの熱狂で、ツアーは東海岸を皮切りに 遂には南部州を超え、キューバでも行われたほどでした。 しかし1951年の始め、リンダは際限のないP・Tのマーケティングについていけないように なり、契約の破棄を申し出ます。 これは極めて友好的な状態で行われ、二人は互いに納得してパートナーシップを解消します。 映画のようにジェニーからの求愛を受け入れなかったために仲違いしたわけではありません。 その後、ジェニーは彼女だけでツアーを約1年近く続けました。 結果的にはジェニーはP・Tと組んで93回のコンサートを行い、彼女自身、約35万ドルを 稼ぎ、P・Tは少なくとも50万ドル稼いだとされています。 2017年の価値にしてこの50万ドルは大体1億4700万ドル、日本円 1ドル110円として で 約16億1700万円になります。 サーカスを始めたのは60歳を過ぎてから 映画では博物館をかなり初期からサーカスと名前を変えていますが、実際にはP・Tが サーカスビジネスを始めたのは1870年、彼が60歳の時になります。 それまでは博物館の中で見世物として奇人変人ショーや生きた動物を展示していました。 1881年にジェームズ・ベイリーと組んでのショーで初めて「サーカス」という名前を 使っています。 1882年にロンドン動物園から買い取ったアフリカゾウのジャンボを目玉とし、アクロ バティックショーや親指トム将軍などの奇人変人ショーを見世物としていました。 また世界でも先駆けて専用列車を所有して各地に公演に出かけていたサーカスでもあります。 おわりに いかがでしたでしょうか? 映画はかなり史実に忠実に、それでいてエンターテイメント的要素は話を盛って展開して いることがわかると思います。 妻も長女、次女も映画で登場したとおり、チャリティ、キャロライン、ヘレンですが、 その他にフランシス、ポーラインという二人の子供もいましたが、フランシスは2歳で ポーラインは32歳で亡くなっています。 チャリティも1873年に44歳で亡くなっており、P・Tは翌年別の女性と再婚をしていること が分かっています。 P・T自身は80歳まで生きました。 「広告会のシェークスピア」という異名を付けられた今でいうキャッチコピーの天才と して、その当時、まだ産業として未発達だったショービジネスを作り上げ、形にして いった一人だったと思います。 関連記事: 関連記事: 関連記事: 関連記事: 関連記事: 関連記事:.

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バーナム・ピアノ・テクニック 全調の練習(改訂版)

バーナム

少し経験があったら、1巻から始めています。 まず、純粋に「1番」から始めると思いますよね。 これが です。 でも違うんです。 「バーナム1」に入る前に、2冊の本が存在するんです。 まず 1冊目がこれ。 紫色の本です。 で、 2冊目がこれです。 「導入書」オレンジの本。 (「導入書」って書いてるから、これが一番最初の本って思いますけど、「ミニブック」が終わったら弾く本です。 要するに 「バーナム1」を弾くには、「ミニブック」と「導入書」をクリアしてからってことです。 スポンサーリンク 本の中身を教えて! まず「ミニブック」から。 ピアノがまったく初めての方向け。 まず、一番最初の曲は、これです。 「ド」と「レ」しか出てきません。 右手だけで弾きます。 次の曲は、スタッカートが出てきます(音を短く切って弾きます) 次に、「導入書」。 両手でなんとか弾けるぐらいの人向け。 1ページ目の曲です。 これは左右別々の動きをするので、なかなか弾きにくいです。 これは、両手で弾くし、左手がよく動きます。 初めて3連符が出てきました。 3連符は、4分音符を1拍として、1拍を3つに分けたリズムです。 最後のページはこんな感じになっています 「バーナム1巻」です。 この本は、昔、ピアノを習っていた人向けかな。 初めのページはこれ。 16分音符が出てきます。 終わりのページはこんな感じ。 1曲が短いのでやりやすいし。 急に難しくなったりしません。 イマイチやなと感じるところ 人によっては、人形のイラストが苦手な子がいるので注意です! 個人的には、私が習った本なので、大好きです! それぞれの難易度は? 「ミニブック」・・・ピアノをまったく初めて弾く人 「導入書」・・・両手でなんとか弾ける人 なので、両手でなんとか弾けるのであれば、「ミニブック」を飛ばして、「導入書」から始めてもいいと思います。 「バーナム1巻」・・・昔、ピアノを習っていた人 おまけ動画 動画を撮ってみました。 参考になったらうれしいです。

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