・佐世保の炭鉱で監督をしていた父・繁が朝鮮から連れてこられた徴用工を助けたことから警察に追われた。 そのため、小学2年生のころに一家で滋賀県へ逃げる。 ・11歳(1947年頃)の時、陶芸の里・信楽町(しがらきちょう) (2004年に滋賀県甲賀市と合併)に転居。 ・小学6年のとき、先生の推薦で「陶器のできるまで」を紙芝居にして大きな公民館で発表。 失敗して恥をかくも、陶器との出会いとなった。 ・地元の中学校を卒業後、和洋裁学校へ進学。 ・陶器の絵付け助手として勤務。 ・陶器会社「近江化学陶器」に入社。 絵付けの仕事を続ける。 ・21才のとき、同じ会社の男性と結婚。 ・翌年に長女・久美子を、25歳のときに長男・賢一を授かり、2児の母になる。 ・1963年頃、27歳で会社を辞め、作陶を始めた。 その後、滋賀県展・市展、さらに朝日陶芸展にも入選。 ・34歳のとき、自分の家の庭に穴窯を築く。 この頃、夫が住み込みの弟子の女性と家を出て行った。 たびたび家を空けていた夫は清子に手を上げようとしたこともある。 そのとき夫の前に息子の賢一が立ちはだかり、「 僕は母さんと姉ちゃんとでがんばる。 父さんいなくてもいい」と言い放ったという。 清子は何回も自殺を考えた。 やがて食べ物がなくなり、庭の畑でとれた野菜などで飢えを凌いだ。 娘の久美子から「 お母さん、もうお父さんのことは忘れて仕事をして」という言葉にも救われた。 ・1975年 39歳 、「信楽自然釉(しがらきしぜんゆう)」を発表。 釉薬(うわぐすり)という薬品を使わずに自然の美しい色を醸し出す古の信楽焼を甦らせる、清子の夢が叶った。 ・1990年、2月。 陶芸の道を進み始めた賢一が慢性骨髄性白血病を発症。 『神山賢一君を救う会』も結成された。 ・1991年、6月。 賢一は再び高熱を出して再入院。 ・1991年、10月。 妹・静子が移植を名乗り出る。 移植手術は無事に成功。 ・1991年、12月、清子たちの熱心な活動が国を動かし、日本初の公的骨髄バンク「骨髄移植推進財団」が設立。 ・賢一は再発。 清子は賢一が入院する前に作っていた壺を、清子の穴窯で焼いて仕上げ、賢一に壺を見せた。 その大壺を抱いた賢一は(目から出血しているせいで)赤い涙を流したという。 ・1992年4月21日、31歳で賢一はこの世を去った。 ・2002年12月、神山清子の半生を描いた本『母さん子守歌うたって—寸越窯・いのちの記録』が出版される。 ・2005年1月、『母さん子守歌うたって』を原作とした映画『火火』(高橋伴明監督)が公開。 神山清子は作陶指導、映画に登場する数百点及ぶ作品に自作を提供、寸越窯や自宅もすべて撮影に使用した。 ・2019年9月25日、神山清子の物語を描いた本『』(ポプラ社)が出版。 ・2019年9月30日、神山清子を取材し参考にしたNHK連続テレビ小説(朝ドラ)『スカーレット』が放送される。 そんな中、5、6年かけてやっとの思いで<信楽自然釉>を再現。 その作品は、釉薬をかけていないにもかかわらず、緑・白・赤・黄色の不思議な発色が起こり、迫力に満ちたもの。 神山清子さんはスペインや台湾などで個展を開くほか、海外の展覧会にも出展するなど活躍。 陶芸家としての地位を固めていきます。 神山清子さんの存在は後進の女性陶芸家に勇気を与えました。 2019年現在も「」会長を務めて活動を続けているそうです。 朝ドラ【スカーレット】のモデル:神山清子のまとめ 神山清子さんは陶芸家として成功したのですが、その半生は波瀾万丈。 夫に去られ極貧生活の中、陶芸に打ち込み乗り越え、そして息子のため骨髄バンクの設立に尽力した…神山さん。 『スカーレット』放送開始当初のあらすじでは、陶芸のことだけ明かされていないので、骨髄バンクのエピソードまで描くかは不明です。 映画『火火』と差別化するため描かない可能性もあります。 ともかく、モデル(参考にした人物)が波乱を乗り越えてきた方だけに、朝から勇気や希望をもらえるドラマになりそうです。
次のNHK連続テレビ小説「スカーレット」 信楽から大阪にやって来て「荒木荘」での仕事にも慣れてきた喜美子。 その荒木荘の住人達も本当に個性豊かで見ていて楽しくなりますね!その中でも喜美子と交友を深めそうなのが水野美紀さん演じる庵藤ちや子です。 【】第3週 「ビバ!大阪新生活」第18回 喜美子 「元気ない時でも口紅塗るとええて! 顔がパーッと明るくなる!」 「ほやから 口紅ひとつ買うてあげたかった!」 ちや子 「誰に?ウチっ?ウチに?なんで?」 薄給やのに 喜美子の優しさが、ちや子に届く! — たこわさび r1ceomlet ちや子は「デイリー大阪」という地方の夕刊を発行している新聞社に勤めていますが、帰りは深夜になるなど多忙な日々を送っています。 喜美子はそんなちや子に元気になってもらおうと口紅をプレゼントしたいと考えていましたね。 大阪の地方夕刊を発行していますが、ちや子曰く「弱小新聞社」。 ちや子は根っからの新聞記者で、昼夜問わず仕事一筋で生きています。 ちや子は編集長の平田からも絶大な信頼を寄せられており、「どこぞの男より2倍働く。 聞屋 新聞屋 の誇りも人の2倍はある。 好きな仕事だから疎かにせん。 最後まで責任を持ってやり遂げる。 」とまで言われています。 ちや子の付き合いで喜美子が「デイリー大阪」へ立ち寄ると、その散らかり具合が気になった喜美子は洗い物や掃除をテキパキとこなして帰っていきます。 その喜美子の働きぶりを見た編集長の平田が給料5倍の引き抜き話を持ちかけてきます!迷った末に荒木荘の仕事を誇りを持って続けることを決めた喜美子。 でも、喜美子の決断はすごいなぁ。 本当にしっかりしてる! 「デイリー大阪」の実在モデルは? 【デイリースポーツ?】ちや子さんが勤める、デイリー大阪編集局。 戦後 創刊された夕刊紙とのこと。 — ひぞっこ musicapiccolino ちや子が働く新聞社の実在モデルはまだはっきりとはわかっていません。 創刊は1948年で近畿地方を中心に神戸新聞社が編集・発行していました。 1955年には「デイリースポーツ社」が設立され、同時に東京でも発行されるようになります。 ちや子が働く新聞社は夕刊ですので日刊のスポーツ新聞ではありませんが、名称から実在モデルの可能性はありますね。 神戸新聞社は戦後に新規創刊する夕刊の発行を計画しますが、GHQの制約により「神港夕刊新聞」を子会社で編集する事で夕刊発行にこぎつけます。 しかし、「神港夕刊新聞」は1948年に神戸新聞社から独立し「神港新聞社」から発行されることになります。 年代や地方夕刊という所が「デイリー大阪」と合致します。 日本政府が18日中東海域に海上自衛隊を独自派遣する検討を表明した背景には、米国へ配慮する狙いがある。 山崎豊子さんは1924年生まれで大阪出身です。 1944年に旧制京都女子専門学校を卒業し、その後 毎日新聞社へ就職します。 大阪本社調査部を経て、学芸部に所属し記者として経験を積んでいきました。 その頃から山崎豊子さんは勤務の傍ら小説を書き始めていたと言われています。 毎日新聞は大手新聞社ですので弱小夕刊新聞社という「デイリー大阪」とは違いますが、ちや子のモデルが山崎豊子さんだとすれば 実在モデルの可能性も捨てきれません。
次のNHK連続テレビ小説「スカーレット」第13週から登場する喜美子と八郎の長男・武志についてまとめます。 武志はある実在の人物がモデルになっている可能性があるので、その人物についてもまとめます。 喜美子と八郎の長男・武志 第13週放送(12月23日〜)に入ると前週から時代が5年ほど飛び、昭和40年(1965年)になっています。 喜美子は27歳になっており、結婚相手である八郎と一緒に自宅脇に「かわはら工房」を設立。 夫婦で製陶業に邁進する充実した日々を過ごしています。 喜美子と八郎の間には4歳になる長男・武志がおり、作業の傍ら二人は子育ても行っています。 今後、夫婦の危機など波乱の人生を歩むことになる喜美子にとって、武志はかけがいのない大切な存在となっていく見込みです。 やがて「別離」が…? NHKが事前に発表しているドラマの内容予告では、武志について以下のような言及がなされています。 やがて愛する男性と結婚し、二児を授かった喜美子。 仕事も家庭も、と、まい進の日々が続く。 だが、結婚生活は思惑どおりにはいかない。 最愛の息子は陶芸の跡継ぎとなるも、やがて別離が。 この文章をそのまま受け取れば、大人になった武志は喜美子と同じ陶芸の道に進むものの、 ある理由によって「別離」をしてしまうことになります。 この「別離」が何を意味するのか。 武志のモデル人物と考えられる神山賢一さんの人生をたどると、おおよそのストーリーが見えてきます。 以下、ネタバレとなる可能性がありますのでご注意ください。 なお、大人になった武志はNHKドラマ「アシガール」などへの出演で知られる俳優・伊藤健太郎が演じます。 「スカーレット」では因縁の間柄を演じてしまうことになりそう…。 【📢追加・出演者発表】 きみちゃんの弟子と出演するのは さん! そして息子👦として出演するのは さん! おやっ!?とお気づきになった方は鋭い。 ともに陶芸家としての夢を描いた神山夫妻でしたが、夫が 弟子の女性(ドラマでは黒島結菜演じる弟子の女性「松永三津」として登場か)と恋仲になってしまい駆け落ち。 清子さんはこの件でずいぶんと悩み自殺を考えるほど思いつめたそうですが、当時中学生だった賢一さんの力強い言葉の後押しもあり、離婚を決意しています。 シングルマザーとなった清子さんは貧しいながらも一層陶芸の仕事に邁進し、古来の製法「信楽自然釉」を完成させるなど陶芸家として名を馳せていきます。 母と同じ陶芸の道に スポーツやオートバイが大好きだったという賢一さんも、母の仕事ぶりを間近で見るうちに、必然的に陶芸家の道を志すことになります。 賢一さんは県立信楽工業高校(現・信楽高校)窯業科に進み、卒業後は滋賀県立信楽窯業試験場でロクロ・釉薬・石膏型の勉強に打ち込むなど、陶芸家への道を着実に歩んでいきます。 窯業試験場での3年間の日々を終えた賢一さんは清子さんのもとに戻ってくると、いよいよ自らも陶芸家として研究と研鑽の日々を過ごすことになります。 天目釉に魅せられた賢一さんは、天目茶碗の製作にのめり込んでいったそうです。 偉大な母を持ち将来を期待されていた賢一さんですが、29歳の誕生日に、突然作陶中に身をよじって倒れてしまいます。 ただならぬ様子を案じて病院で検査をしてもらった結果、賢一さんは慢性骨髄性白血病であることが判明。 この時点で余命が二年半ほどであると宣告されてしまいます。 白血病との戦い 骨髄バンク普及活動の先頭にも立つ ここから始まる壮絶な闘病、看病の日々は「母さん子守歌うたって—寸越窯・いのちの記録」という清子さんの人生を綴った本に詳しく書かれています。 大切な賢一さんを何とか助けたいと願った清子さんは、骨髄提供をしてくれるドナー探しに奔走。 当時の日本ではまだまだ「骨髄バンク」のシステムは確立しておらず、清子さんは賢一さんだけでなく広く白血病患者の命を救うべく、仲間たちを巻き込んで骨髄バンクの早期実現運動を展開しています。 賢一さん自身も「骨髄バンクと患者を結ぶ会」の会長となり、骨髄バンク運動の先頭に立って患者の仲間たちを励ましながら、入退院を繰り返つつロクロをまわすという、陶芸家の熱い生き様を見せています。 賢一さんはHLAが完全には適合していない清子さんの妹・静子さんから骨髄移植を受けるなど、奇跡を信じて病と戦い続けました。 一時は白血球の数値も改善し、1991年には「骨髄移植推進財団」の設立が実現するなど希望の光も見えていましたが、やがて白血病が再発。 31歳の誕生日から二ヶ月後に、賢一さんはついに息を引き取っています。 「スカーレット」は神山清子さんの人生をモチーフに物語が創作されており、武志との「別離」とは、史実を参考にすれば武志の「闘病の末の死」を意味するのではないかと予想します。
次の