横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か。 前田利長

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横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か

但馬守、1万5千石 前田氏家臣。 長知の母は芳春院の姉であり、加賀藩第2代藩主前田利長の従兄弟にあたる。 天正15年(1587)豊前巌石城の戦い、同18年(1590)武蔵八王子城攻撃で軍功をあげた。 慶長5年(1600)利長の大聖寺攻めに従い、帰途浅井畷で丹羽長重の攻撃を受けた時、殿軍を勤めて奮戦した。 同7年(1602)利長の命を受けた横山長知に殺害された。 3万石 天正10年(1582)父長隆とともに前田利家に仕える。 慶長4年(1599)利長が家康から謀反の嫌疑を受けた時、弁明に赴き、前田家は事なきを得た。 一時、利長の咎めを受けて京都に閉居したが、大阪の陣のときに許され、その後は加賀藩の執政として国政を預かった。 殺害したのは利長の命を受けた横山長知。 利長は最初、山崎閑斎と横山の二名に太田殺害を命じていたが、山崎は約束の時間に遅参したため、横山は、助太刀として連れて行った御馬廻組の勝尾半左衛門とともに太田を成敗した。 成敗のようすは諸本によって異同はあるが、『象賢紀略』には、このとき、太田は横山の帷子を斬り、助太刀の勝尾へも肩に一太刀あびせ、更にその場にもう一人いた者(「大膳普請奉行」とある)にも、転んだ拍子にその脛を脇差があたり、都合3名に怪我を負わせて、必死で防戦した、とある。 後々人々はこの太田の奮闘ぶりを賞賛したという。 また、『可観小説』の「一、太田誅せらるヽ事」(可観(2))では、ここに、更に長刀を手にした利長が登場し、止めを刺す。 利長は「主人の目をくらます不届き者め!」と太田に罵声をあびせ、長刀で太田を突いた。 太田は言葉も出せずにただ首を振るばかりであったが、やがて事切れた。 浅井畷の戦の後にはその戦功をねぎらって感状を送られており、利長にとっては功績者の一人といえる。 その太田を利長は何ゆえ殺害しなければならなかったか。 『石川県姓氏歴史人物辞典』などでは「その理由は未詳」としている。 また、太田誅殺は間もなく近隣の国々にも知らされたようで、隣国越後の堀秀治(「仍太田但馬事被仰付候事、実候哉、・・・中納言殿へ以書状可申上候へ共、慥之義不存候条・・・」横山大膳宛)や新発田城主溝口秀勝(「太田但馬殿義不届族御座候に付而被仰付様に承驚入存候・・・」利長宛)が、慰問しているが、その書状はいずれも事情が飲み込めず、困惑気味である。 〔三壺聞書〕太田但馬御成敗之事 ・・・但馬居屋敷露地の内にて狐の子を狩出し捕へ、色々になぶりさけばせければ、親狐とおぼしくて、堀の上にあがり身をもだへてさけびけり。 猶面白く思ひて、脇指をぬきひたなぶりにして、終に殺し捨てければ、親狐是を恨み、何処共なくうせ、夜る夜る来てさけびけるが、或時御城にて御能有之節、御広式女中方はみすの内にて見物也。 其の女中の中に但馬を見初め、扨々器量のよき人やと殊の外ほめなし、能は不見して但馬に目を放さず守り居たりけるを、出頭の女中是を見て御耳に入れ奉る。 誠に女はつれなき心中かな。 彼の但馬をほめたる女中、御前うとくなりしを心に懸けて有りけるが、或夜女中部屋の縁通りを忍びたる躰にて塀を越えて出づるを、利長公一両度御覧有しが、扨々にくき次第と思召し、山崎閑斎・横山山城に但馬を可討と被仰渡、日限を極め支度を致し、但馬登城を待居たり。 閑斎は時刻失念にてや有りけん遅参に及ぶ。 其の内に但馬登城し、御式台を過ぎて廊下より御広間へ出づる所を、山城御意也とて抜打に討ちければ、大げさに切られながら、心得たりとぬき合わせける所へ、勝尾半左衛門出で助太刀を打ち、二の刀にて横山討ち討留めける。 利長公御感ありて、但馬死骸を城中極楽橋の爪に置かせられ、主君の目をぬく徒者の果を見せしめよと被仰出。 但馬に恋慕の女房、一味の女五人御露地の内に縛り置き、宮崎蔵人に被仰付、竹の筒にて目を打出し、其の後殺害日仰付、山城は御加増を被下ける。 ・・・ 〔可観小説〕一、太田但馬誅殺せらるヽ事 (注:先に取り上げた話とは別に『可観小説』ではもう一つ太田の誅殺の話を載せる。 こちらを「可観(1)」とする。 ) ・・・或時但馬鷹野に出かけるに、路傍に狐の子あそべり。 但馬捕之云様は、人を悩す妖獣の子也。 嬲殺しにせんとて打擲し、終に狐児を殺せり。 おや狐見之大に愁えへ、頓て但馬が下女に詑し、狂妄して云様は、罪なき我子を嬲殺せり。 此怨念何方へ行べき哉。 みよ近日太田を殺し思ひ知らせんと云けり。 其頃利長卿寵愛第一の妾あり。 城外に屋敷を構て入置、折節忍びて通はれけり。 或夜其所へ忍びけるに、奥の方に一人の男子みえたり。 太田但馬とみえて庭中へ逃出たり。 黄門不思議におもひ、但馬を疑ふ。 然共黄門舌頭へも出し不給。 其後又妾の所へ通ひけるに、又但馬忍べる躰にみえて行方不知成たり。 今は腹にすゑかね、横山山城に命じ、実否糾明もなく、一旦に妾も但馬も誅殺せられけり。 皆人不審し哀れ悲めり。 但馬其夜は高山南坊宅へ招請せられ、夜更る迄酒宴に及びければ、寵妾の方へ可通様もなし。 其上深閨の内、誰人か可到様はなし。 然るに何の詰問もなく、火急に誅殺成けり。 後日に能穿議ありければ、件の妖狐の所為なりとて、黄門甚後悔せられけると也。 『三壺聞記』も『可観(1)』も太田は狐の子を殺した報いで殺されたことになっているが、狐に化かされたのは太田だけではない。 利長もまた狐に化かされていたことになる。 ことに『可観(1)』では、取り調べもないまま太田を殺害してしまったのを、狐の所為と知ったとき、利長は深く後悔している。 また、玉藻の前の話のように、太田が通っていた利長の妾が狐なのではない。 一連の事件の演出が狐によるものとしているのであり、いわば催眠術にかけられたような状態で、妾も太田も利長も「動かされていた」のである。 さらに『三壺聞書』では、狐を殺した太田がその報いで死んだ話とは対照的に、その後半で、狐の恨みを結果として晴らす形となった横山の幸運(横山家が栄えたこと)が記されている。 これは、畜類といっても、むやみにいじめるとその報いは必ずあるといった、単なる「教訓」を物語っているだけなのだろうか。 いったいこの「狐」とは何ものであるのか。 『三壺聞記』も『可観(1)』も、この事件の百年余後に書かれたものであり、すでに事件の真相はあいまいなものになっていたとしても不思議ではない。 原因の不確かさゆえにこれは狐の仕業であると片付けてしまったのか、それともこの事件の陰に「大きな力」が働いていたことを暗に言い含めているのであろうか・・・。 『可観小説』には狐の話とは別に、もう一つの「太田但馬誅せらるヽ事」(可観(2))がある。 その中に、原因の手がかりともいえそうな記述がある。 それによると、太田は関ヶ原以後江戸への御使を勤めていたが、家康がたいそう懇意にして、浅井畷のことを尋ねたりして饗応し、馬や刀などまで下された。 利長はこれを聞いて「如何思召候や」、横山と山崎に太田の殺害を命じたというのである。 将軍家と誼を通じることは前田家にとって決して不利なことではない。 だが、個人的に馬や刀を下賜されるほどに実懇になったことで、かえって利長は危機感をつのらせたのではないだろうか。 ひょっとして関ヶ原前夜の家中の動揺にまで太田は言及しているのではないかと・・・。 また、『象賢紀略』では、太田側の人物、横山側の人物として十数人の家中の者の名を上げている。 太田側の人間として、中川宗半(光重)、篠原出羽(一孝)ら十数人、横山側の人物として長九郎左衛門、高山南坊(右近)ら十人余を上げている。 前田家中の錚々たる人々である。 太田は数々の軍功を上げ、智謀もあって力量も人に勝っていたというから、人をひきつける力のある人物であったのだろう。 慶長5年(1600)の大聖寺攻め以来、家中には太田に肩を並べるものがいなかったという。 時には主君をないがしろにするような驕った振る舞いもあったのかもしれない。 そういう太田を快く思わないものもいたであろうし、双方の確執を太田の殺害ということで決着をつけたことも、おおいに考えられる。 この事件の前年(慶長6年)9月には、徳川秀忠の女子々姫(珠姫・天徳院)が利長の養嗣子猿千代(犬千代・後の利常)のもとに輿入れしてきており、公儀の手前、家中が二つに分かれることはなんとしても避けねばならないことであった。 さらに、前出の狐の話のところでも利長の妾について触れていたが、『象賢紀略』に、太田が殺された後、御手掛衆(妾)の「おいま」をはじめ、中使の者5人が目を抜かれ、見せしめとして家中の人持衆十人ほどに示したと記されている。 どうやら太田殺害の直接の原因は、太田と利長の妾との不義密通といえそうである。 太田粛清にあたって、横山と共に利長の命を受けた山崎閑斎は、約束の時間に遅参し、直接殺害には関与しなかった。 そしてこの事件の後、それまで兄弟のように仲の良かった横山との仲が悪くなったというが、それは連座した女中の中に山崎の縁者がいたせいであろうか。 太田の不義密通、あまりに懇意になりすぎた家康(幕府)と太田との関係、家中が二つに割れる危機。 これらが複雑に絡み合って結果、太田の誅殺となったのではないだろうか。 殺害を実行する10日程前に、利長は横山に太田殺害を命じたそうであるが、その時「大膳被申分、利長公被仰分、色々さまざま之儀、後にきこえ申候事」(『象賢紀略』)と、利長と横山の間でもこの件に関してさまざまな議論があったと後に言われるくらいで、ことは秘密裏の内に実行された。 隠し通さねばならない。 そのために作り出されたのが先の狐の話だったのではなかったか。 狐の報復による奇異な事件とすることで真相を闇に葬り去る必要があったのではないだろうか。 真相が解明されない不可解な事件だけに、殺された太田に同情する者がいたり、ひいては利長自身がそれを悔やんだりといった話が出来上がったのだろう。 百万石の光の裏には、深い闇があった。

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加賀藩歴代藩主とその姫達

横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か

来歴 [編集 ] にて生まれる。 重教が弟の第10代藩主に家督を譲って隠居した後、生まれた息子である。 寛政7年(1795年)、兄のが夭逝したため、代わって藩主治脩の養子となる。 翌寛政8年(1796年)11月に江戸に出府、松平の名字を与えられ 、12月に名(幼名)を亀万千から勝丸、さらに犬千代と改めた上で、を又左衛門、を 利厚とする。 寛政9年2月、将軍よりを授かり 斉広に改名する。 正四位下左近衛権少将、筑前守に任じられる。 2年()に、治脩の隠居により家督を継いだ。 加賀守を称し、同年6月に左近衛権中将に任じられる。 治世の当初は藩の政治改革を試みたが、大きな効果を挙げず挫折した。 文政5年()、嫡男のに家督を譲って隠居し、肥前守を称した。 文政7年(1824年)に43歳で没した。 の短編小説「煙管」(1916年)では、金無垢のをモチーフとして、坊主たちと役人たちと斉広(作中では名を「なりひろ」と読んでいる)との心理的駆け引きがユーモラスに描かれている。 系譜 [編集 ]• 正室:琴姫(尾張養女・高須女、のち離縁)• 正室:(隆子・眞龍院、二女)• 側室:栄操院 八尾(家臣・小野木之庸女)• 長女:直姫(1809年 - 1825年) - 小倉藩婚約者• 長男:(1811年 - 1884年) - 加賀藩12代藩主• 次女:厚姫(1813年 - 1852年) - 会津藩主室• 四女:寛姫(1815年 - 1856年) - 小倉藩主小笠原忠徴室• 次男:他亀次郎(1817年 - 1825年)• 六女:郁姫(1818年 - 1829年) - 婚約者• 七女:寿々姫(1819年 - 1835年) - 家臣・室、次姫と双生児• 八女:次姫(1819年 - 1823年)• 四男:延之助(1821年 - 1834年)• 側室:遠成院 留奴(家臣・坂井成美女、のち家臣・沢田施政に嫁す)• 三女:勇姫(1813年 - 1875年) - 大聖寺藩主室• 側室:貞成院 登佐(加藤伝左衛門孫女)• 五女:タカ姫(1818年 - 1831年) - 久留米藩婚約者• 側室:月光院 里(家臣・安田忠義女、のち家臣・不破方叙に嫁す)• 三男:為三郎(1819年 - 1819年) 初め正室の琴姫とは享保3年(1803年)12月結婚したが、2年後の文化2年(1805年)8月、琴姫は病気を理由に実家の藩邸に移ったまま戻らず、翌3年8月離縁した。 後にに再嫁している。 継室の夙姫とは文化4年(1807年)12月に結婚した。 前田家は後添えはもらわぬと称していたというが、斉広は慣例を破って継室を迎えた。 また、初めての公家からの正室であった。 斉広の代の家臣 [編集 ] 元年の江戸で見られる斉広の主要家臣は以下のとおり。 【八家の、年寄】(附役兼務)、、、、、、、、前田右近 【その他の家老、年寄】、、前田織江、前田修理(附役兼務)、前田兵部、前田権佐、前田式部、前田掃部 【】大橋作左衛門、渡辺久兵衛、杉江助四郎、寺西平左衛門 【附】(文政元年に単独で附職の者の記載なし) 【】長瀬善右衛門、岡田十郎左衛門、大島三左衛門、里見七左衛門 脚注 [編集 ].

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前田斉広とは

横山 長 知 と は 前田 家 の 家臣 で ある か か

一、家臣構成 前田利家は荒子時代に家臣を兄から引き継ぎ、山森伊織・奥村治右衛門・吉田孫兵衛・姉崎四郎左衛門・三輪作蔵・山森 恒川と改 久次・金岩與次といった荒子七人衆や、村井又兵衛・原田又右衛門・久田孫右衛門・篠田孫助・富田與六郎・河原兵庫・奥村孫助・奥村弥左衛門・半田半兵衛・野崎源左衛門・岡本助兵衛・高畠茂助・橋爪縫殿助・小塚仁左衛門・千秋新助を従えた。 二千四百五十貫文 約六千石 程度の禄で雇用するには、利家とまつの夫婦にとり、かなりの無理を強いられたであろう。 府中へ移った時にも新規召し抱えをし、府中二十一人衆など三十一人や銃手五十人とも言われる。 このうち千石が前田五郎兵衛安勝・前田右近秀次・青山與三吉次、八百石が高畠孫十郎定吉、二百石代が村井又兵衛長頼 二百五十石 ・小塚藤右衛門 二百二十石 ・近藤善右衛門 二百石 、百石代が木村三蔵 百八十石 ・富田與五郎景勝 百五十石 ・篠原勘六一孝 百三十石 ・原田又右衛門 百二十石 ・奥村助右衛門永福 百石 ・富田與六郎景政 百石 、以下が片山内膳延孝 八十石 ・岡島喜三郎一吉 八十石 ・岡田長右衛門 七十石 ・木村久太郎 七十石 等である。 能登入り前の彼らは本座者と呼ばれた。 能登以降の新座者には、織田・豊臣・朝倉・佐々等の旧臣がかなり混入し、家中全体では過半数を尾張・越前・近江・美濃・三河の出身者で占めた。 軍功を挙げた者を金の番取衆として評価する一方で、領地の拡大に伴い万石以上の家臣も抱えていたため、戦国の終焉とともに家臣代の再編が余儀なくされる。 反旗を翻して討たれた者や町人になった者、子や孫の代で石高を減らされた者等が続出した。 御徒 延宝五年から歩 以上の数は、元和元年千四十人 八十九万八千七百五十六石 、寛永四年千三百二十二人 九十三万四千百四十二・七石 と増え、寛文元年千二百六十四人 八十一万九千七百二十六・二四五石 に減っている。 万石以上は、慶長年に本多政重五万石・長連頼三万三千石・横山長知三万石・村井長家一万六千九百石・山崎長門一万五千石・富田重家一万三千石・岡島一吉一万千七百五十石・松平康定一万石・横山長治一万石である。 慶長年には十九人廃絶になっている。 片山伊賀守延高一万石・高山右近二万五千石 一万石とも ・太田但馬守長知二万石・近藤大和守長広一万千石等である。 元和元年には本多・長・横山・村井と奥山栄明一万七千石・青山豊後一万五千石・篠原一孝一万三千石・神尾主殿一万千石・前田対馬一万千石・浅井左馬助一万石・前田美作一万石・神谷式部一万石、寛永四年では本多・長・横山・村井・山崎・富田・岡島・奥村・浅井・神谷・前田二家と奥村易英一万二千三百石・成瀬内蔵助一万千石・小幡右京一万石であったが、元和に十三家・寛永に二十八家が廃絶になっている。 寛文二年本多・長・横山・村井・奥村二家・前田二家、同九年に村井が万石未満になり 後に万石に戻る 、同十一年に今枝民部一万四千石が入る。 一方で寛文に二十九家・延宝に三十一家が廃絶になった。 馬上の侍は人持・物頭等と小姓に分かれ、人持組が最上級家臣である。 組頭は寛文九年本多・長・横山・前田対馬・奥村伊予・奥村因幡であり、六組 他に予備 それぞれ十数人を組下に持ち 予備は四人 、戦端を切る先筒としての鉄砲足軽と弓足軽をそれぞれ数十人ずつ配した。 同十一年は奥山伊予に替わり小幡宮内が入り、貞享三年に本多・長・横山・前田二家・奥村二家の七手頭、元禄十四年村井を入れて八人で七組を交互に裁許するようになる。 物頭は足軽頭であり、御鉄砲之者と御弓之者を管轄する。 馬廻は護衛であり、小姓は直卒である。 これら旗本に属す鉄砲を持筒という。 駕籠先を警固するのが御歩であり六組、別に城内警備の定番御歩があった。 一本差の足軽は延宝期に大組 鉄砲 ・中組と先手組 いずれも弓と鉄砲 に分属する。 それ以下は雑役に従事する小者であった。 侍には軍役を課し、戦時には馬上・鉄砲小筒・弓・鑓・旗を供出することになっていた。 大坂冬の陣では、万石百五人・七千石八十一人・五千石五十六人・四千石四十二人・三千石三十人・二千石二十一人・千石九人・五百石四人、夏の陣では知行地を加賀と越中・能登に持つ者を分けて賦課する。 実際は人馬高という馬一匹を四人に相当させる等、規定通りではないのであるが、石高が小さい者には負担が重かったと思われる。 また冬の陣の教訓からであろうか。 幕府の軍役に比し夏の陣では馬上と鉄砲を多く配した。 元和頃に長瀬主計組七人と石川虎之助組十六人の鉄砲組二組と鉄砲頭二十六人を置いている。 戦後に幕府では元和二年六月の軍役改訂があり、前田家でもこれを承け鉄砲と馬上を減らす一方で鑓を増やす。 慶安二年十月にはより軽減・均等なものにした。 軍役 元和二 一六一六 年九月大坂の陣の経験を生かして制定される。 家中の者は石高に応じて次を指し出す義務を負うた。 幟 本 馬上 騎 小馬印 本 鉄砲 丁 弓 張 鑓 本 加賀に知行地 一万 七 二十 一 二十五 五 五十 七千 五 十四 一 十八 三 三十五 五千 三 十 一 十三 二 二十五 四千 三 六 十 二 二十 三千 二 四 八 一 十五 二千 一 一 六 十 千 一 一 五 五 五百 一 三 越中と能登に知行地 一万 七 十五 一 二十 五 四十 七千 五 十 一 十四 三 三十 五千 三 七 一 十 二 二十 四千 三 四 八 二 十五 三千 二 三 六 一 十二 千 一 二 四 五百 一 二 知行の支給が加賀と能越を混ぜて付与されるようになると変更を余儀なくされ、元禄年に定め直した。 後年高山への出兵準備の際に武備が弛緩していることが判明したため、安永二 一七七三 年に詳細な改訂が行われる。 組 職階が整備されるのは延宝五 一六七七 年からであり、貞享三 一六八六 年六月の『群臣階次』で完成を見る。 実施は元禄三 一六九〇 年からであり、八家や平士・与力・同心等が確立したとされる。 平時の組数は次の通り。 人持七組 八家一人は城代 残り七人が人持組各一隊を率い先鋒 奥小姓二組 表小姓二組 大小姓六組 殿様側近 馬廻十二組 近辺警固 定番馬廻八組 城の留守 組外四組 馬廻や定番馬廻を補助 新番二組 近侍警固の補助 御歩六組 殿様の御供、太鼓・法螺で合図 大組足軽三組 筒を装備し馬廻組に付属 持方足軽七組 殿様直卒で三組が弓・四組が筒 先手足軽二十一組 七組が弓・十四組が筒を装備し人持七組に分属 割場附足軽五十組 八組が弓・四十二組が筒を装備し馬廻組に付属 大夫 中小大名は五位の大夫 たいふ に任じられる 叙爵 されることは栄誉であり 正規の守に任官 、前田家では家中からも叙せられる者が出る。 前田利家が天正十九 一五九一 年三月に参議となった際には、村井又兵衛長頼 豊後守 と篠原勘六一孝 肥前守 が叙爵し 豊臣姓を賜ったとも 、文禄三 一五九四 年四月に秀吉が前田邸御成時に、高畠織部定吉 石見守 と中川清六郎光重 武蔵守 が叙爵、同四年三月に奥村助右衛門永福 石見守 と神谷左近守孝 信濃守 が叙爵され、計六人となる。 慶長元 一五九六 年九月には更に奥村織部栄明 河内守 ・富田大炊重政 下野守後に越後守 ・木村三郎兵衛景行 土佐守 ・岡田源太左衛門 丹後守 が叙爵する。 これは明使沈惟敬を伏見邸で接待した功労である。 利常の代には元和元年閏六月に本多政重 安房守 と横山長知 山城守 が叙爵した。 奉行 越中国では慶長九年に新川郡一部、同十年に砺波郡と射水郡、同十二・三年には新川郡残りを検地する。 この時には奉行三~五名で一組になり村ごとに検地を進め、村の代表者も同行する。 「菊池旧記」によれば、砺波郡に寺西若狭・安原隼人・神尾図書・佐垣九兵衛・鶴見左門・奥野讃岐・石野讃岐・赤座土佐・川口彦兵衛・小幡駿河・山森伊織・富田内蔵・神戸蔵人・水野勘兵衛・芝山権兵衛・富田越後・杉野織部・赤沢備後・斉藤吉右衛門、が派遣されている。 また同書には寛永・明暦頃の砺波・射水郡の奉行として、伊藤内膳が高岡で改作方と郡方、林十左衛門が下才許、原五郎左衛門が大清水で砺波郡奉行、平野忠兵衛が今石動・水越長右衛門が松永で砺波郡奉行、篠島豊前が今石動で伊藤内膳が小松に異動した後を担当、国府新助が中田で砺波郡と射水郡の奉行、金森長右衛門が慶安年から小杉新で奉行、とある。 職制が未分化の時代であり、複数の奉行が地域を分担し、街道筋を抑えている。 また高岡や今石動から村々へ指示が出ていたことも分かる。 このような方法は、婦負郡や新川郡でも同様であったろう。 信仰 前田氏は天神信仰をもとに菅原氏を称し、武門として八幡社や愛宕大権現等も崇拝している。 愛宕大権現の本地は将軍地蔵であり、京の愛宕峰に村井玄蕃が尾張から年三回詣でたというし、子の長頼も熱心であった。 利家は兜の内に将軍地蔵の像を納め、金沢には祈祷所を二か所設けて明王院と宝幢寺を別当にすると、家中の多くが参詣する。 本座者と新座者 利家の出世に伴い家中が拡大するが、利家や利長が本当に頼りとした家臣は柳ヶ瀬合戦までに仕官した者たちだけであったという。 これを本座者という。 古参家臣には奥村永福やその弟孫助、荒子七人衆と呼ばれる村井長頼・小塚藤右衛門・高畠定吉・原田又右衛門・木村三蔵・吉田孫兵衛守好・金岩與次之助、更には山森伊織・河原兵庫・久田孫右衛門・恒川監物・三輪長好・橋爪縫殿助・大屋助兵衛・高畠平右衛門・高畠大工・富田治部左衛門景政・半田半兵衛・篠原長重・姉崎四郎左衛門・古沢兵衛・中山三助・富田六左衛門重政がいる。 越前府中では、前田安勝・前田秀次・青山吉次・高畠定吉・村井長頼・近藤善右衛門・小塚藤右衛門・奥村永福・吉田孫兵衛守好・吉田長蔵 子 ・木村三蔵・篠原勘六一孝・富田與六郎景政・富田與五郎景勝 子 ・片山内膳・岡島一吉・岡田長右衛門・山田但馬・木村久三郎・山森伊織・小塚藤十郎・前田利好・中川清六・前田長種・大音藤蔵・横山半喜長隆・荒木善太夫・山崎左兵衛・山崎彦右衛門・三輪長好・姉崎勘右衛門・千秋主殿助範政・千秋善兵衛 弟 ・有賀秦六直政・笠間与七郎・三輪藤兵衛吉宗・斉藤忠左衛門・森太左衛門祐重・九里甚左衛門正貞・脇田兵部重孝・出野金右衛門・青木善四郎信照・野村七兵衛・今村藤九郎・杉本四郎右衛門・杉本作左衛門・渡部彦左衛門・川縁弥左衛門・野村六左衛門、等が仕えた。 本能寺の変では、夫婦で上京途次の利長が勢田で明智謀反を信長の草履取岩 がん 隈 まく より聞き及び、永姫を急ぎ荒子へ退避させようとするが新座者からの欠落者が続出し、本座者を付けて送り届ける。 「桑草字苑」ではこの時に利長の供をしたのは、奥村次右衛門・三輪作蔵・山森伊織・恒川監物・吉田数馬・姉崎勘右衛門、「有澤永貞古兵談残嚢集」では永姫の乗物を担いだのが、恒川監物と奥村次右衛門で、利長に同行したのが三輪作蔵・山森伊織・吉田数馬・姉崎勘右衛門・田中小右衛門、「三壺記」では利長に恒川監物・山森伊織・吉田数馬・三輪作蔵・姉崎勘右衛門が付いたと記されている。 利家は利長に宛てた「国祖遺言」 利家の口述をまつが筆記 で次のような教訓を言い残した。 二十年召し仕えた者は本座者と同様に見ていい。 新たに取り立てた新座者の忠義は本座者を越えない。 威勢がいい時には奉公に励むが、具合が悪くなると妬みや裏切りが出る。 能力をよく見極め依怙贔屓せず、長く仕えている者を大切にせよ。 本座者はたとえ不満があっても火急の際には逃げることなく自らを犠牲にして励む。 本能寺の変時に新座者がとった行動を思い出せばわかるだろう。 ただし新座者でも文武両道に秀でた者は重用せよ。 長連龍や高山右近は律儀な人物である。 一方で片山伊賀は情勢によっては主君より自分の考えを優先する「大気」である。 徳山五兵衛は他国と通じこちらの秘密を知っているだけに何をするか分からない。 この者たちを警戒せよ。 片山伊賀と太田但馬の粛清 片山伊賀守延高は府中で仕えた府中衆で一万石を付与されていた。 茶の湯に通じ、慶長四年三月には利家から金子三枚 三十両 の遺物配分を受けたほどである。 病床の利家を見舞いに家康が大坂の屋敷に赴いた際に、家康を討てと命じた利家を諌めて事を防いだというが、警戒した利長の指示で石川左源太と松田四郎左衛門により利家薨去八日目の閏三月十日に大坂の宿所で討たれたという。 なお、徳山五兵衛は家康に通じ、利家薨去の翌日に家康の下へ出奔している。 太田但馬守長知はまつの甥であり、九州攻めや八王子合戦で功を挙げ、慶長四年三月に金子五枚の遺物配分を受けた。 翌年の大聖寺城攻めでは先鋒を務め、一万五千石 三万石とも を付与される。 だが小松城の世子 後の利常 付衆や大聖寺城攻略時に従った新座者を与力衆として取り込み勢力を拡大、同七年に危惧した横山長知の意見を入れた利長が、十日後に江戸から金沢へ戻るので、その時に山崎長門守と協力して討つよう命じる。 芳春院の有馬湯治直後でもある。 五月四日 『石川県史』では十四日の誤りとも 決行の時に金沢城内では山崎が現れず、横山と味方した勝男半兵衛や従う者のみで実行することになったが、太田は歴戦の兵であり転びざまに脇差で横山の脛を討ち、勝男は肩口に太刀を受け、三人を負傷させて居間や中使五人を討つ。 ようやく仕留め、利長は間髪を入れずに小松の与力衆を解雇し、大聖寺城を接収する。 この頃は徳川支配に反発する太田が芳春院の金沢帰還を主張、小松の世子を擁し中川宗半・篠原出羽・奥村河内・神尾図書・三輪志摩・神谷信濃・富田下総・岡島備中・上坂又兵衛・松平久兵衛・小塚権太夫等を味方につけていた。 一方の横山は徳川に従うこと止む無しとの立場で、長九郎左衛門・高山右近・富田越後・山崎長門・浅井左馬助・奥野与兵衛・高畠平右衛門・不破彦三・青山佐渡・小幡駿河等を味方につける。 一つ処置を間違うと家中の分裂抗争に発展しかねなかった。 十月晦日の天守閣落雷は太田但馬の祟りと噂されたそうである。 二、特筆すべき家臣履歴 相浦新介 長連龍に仕え、柳ヶ瀬からの脱出では自分の馬を利家に献じた。 その功で鹿島郡満仁に五十石を与えられた。 青木新兵衛正玄 佐々木高綱の後裔で、近江国甲賀郡で熊谷氏を称す。 新兵衛は青木正照の三男であり、府中で原彦次郎に仕えた後に、佐久間盛政・中村一氏・蒲生氏郷・上杉景勝・松平忠直のもとを渡り歩く。 元和九年に前田家の禄を食み五千石を知行し足軽頭を務めた。 剃髪し芳斎と号す。 青木信照 善四郎と称し、信長の家臣であったが、府中で利家に従う。 天正十一年に三千俵、同十二年三百俵を加え、同十七年六千三百五十一俵となるが、同十八年に八王子での合戦で戦没する。 青木吉則 祖父は朝倉義景に千五百石で仕えた刑部で後に千石で利家に従っている。 父才右衛門は佐々成政に七百石で従う。 吉則は監物を称し、片桐出雲守孝利 片桐且元次男 に八百石で仕えていたが、牢人して利常に仕える。 嫡男吉勝は承応二年利次と富山へ移り百五十石、次男宇右衛門は正甫に召され千秋と改姓した。 青地光綱 近江佐々木氏の末で、蒲生定秀 蒲生分流で六角家臣 の次男が駿河守長綱の養子になり駿河守茂綱を称し織田信長に仕える 宇佐山で戦没。 子の四郎左衛門光綱 元珍 は佐久間信盛の与力や信長のもとで活躍するが、本能寺後信孝に仕えたため改易、蒲生氏郷の客将を経て慶長四年利長に二千俵で仕えた 別伝に蒲生茂綱の子で青地綱重の養子とも。 寛永十年九月二十九日卒。 次の四郎左衛門等定 定好・定延 の実父は武田勝頼家臣で徳川旗本になる佐々木高盛 中務大輔・法名は承漢 であり、豊臣秀頼に仕えた後、元和四年に光綱の婿養子となる。 連歌に詳しく、寛永十年には千石に至り、本多政重が越後時代の裔である定政を養子に入れた。 寛文五年に卒。 なお高盛の孫婿である佐々木兵庫頭定治は蒲生家臣を経て寛永六年に利常に仕える 万治三年致仕し道求と号す。 青山吉次 尾張出身で橘氏、通称は與三、父は与左衛門吉永。 十五歳で織田信長に鷹匠として仕え七十石。 後に使番四百五十石として永禄・元亀頃に功を重ねた。 本能寺以後は利家に仕え千石。 柳ヶ瀬合戦に従い、利長に仕えて二千石を加増。 末森合戦や蓮沼合戦で活躍し、二千石を加え名刀を賜る。 加賀鳥越・豊前巌石・上野松枝・武蔵八王子で功を挙げ、婦負郡城生城、次いで村井長頼を引き継ぎ新川郡魚津城を守り、一万七千石に達した。 慶長三年四月従五位下・佐渡守、同十七年六月晦日に魚津で卒 七十一歳。 浅野左近の子長次 後に長正 は、長次卒後に母が末森城の土肥但馬に再嫁し、利家の命で吉次の養子となり與三を称す。 跡を継いで魚津城を守り、小田原の北条攻めや大聖寺の合戦に従い、大坂の陣では魚津城で留守居。 元和元年五月二十日に四十三歳で卒。 赤尾主殿少水 近江浅井長政の重臣赤尾美作清綱の次男伊豆守は京極高次に仕え、その子主殿少水は土屋数直に仕えた後、慶安元年前田利常に仕えた。 嫡男平六郎は早世し、助左衛門頼孝が二千石で継承する。 赤座吉家 直保とも記す。 久兵衛を称し、父の直則とともに朝倉家臣であったが、滅亡後織田信長に仕えて、府中の利家など三人衆の与力となる。 豊臣秀吉に属し、天正十八年に石田三成の下で小田原征伐に出陣、岩槻や忍を落とし、従五位下・備後守となって越前今庄を領した。 慶長五年の関ヶ原合戦では西軍であり、大谷吉継とともに戦うが、途中で小早川秀秋に呼応し東軍に転じたものの戦後除封になり、京に住む。 翌同六年十月利長に仕えて松任城に入り七千石を知行した。 連歌を能くした。 同十一年三月に越中大門川が出水した際に検分に赴き、馬で渡ろうとして溺死したという。 子の右京孝治は六角家臣永原重治の養子となっていたが、実家に戻って秀吉のもとに移り、慶長九年利長に三百石で仕え、父の跡七千石を継いで廃城まで松任城を守る。 大坂の冬陣では真田丸で大損害を出した。 江戸への使いや、元和六年の大坂城修築に携わるが、利常は幕府を憚り永原を名乗らせた。 利常に従い小松へ移り家老並となる。 父と同様連歌に長け、能書家でもあった。 慶長二年三月に致仕し、如閑と号して九百五十石を養老扶持、万治三年十月卒。 赤松 石野 氏満 播磨赤松一族で、父は石野城主の氏貞。 天文二十二年生まれで小六郎と称し、和泉守。 三木城で別所長治に従い秀吉勢と戦う。 射撃に長け古田織部の兄重則を討ち取ったという。 その後秀吉に仕え、やがて利家に従う。 八王子合戦で首級二を挙げる等戦功を重ね、三千石を知行した。 早くから苗字を石野に改めている。 慶長十一年に卒。 嫡男氏置は幕府旗本、三男の正直は紀州徳川家臣となった。 次男讃岐守氏次と氏満の弟貞重は金沢に残り跡を継ぐ。 浅井一政 初め諱は正祥、源右衛門と称す。 近江浅井一族で、慶長年に今木の苗字で豊臣秀頼に仕える。 大坂冬の陣では御使番として大坂城を守り、夏の陣では京極高次のもとへ使いした帰途に落城を知り京へ逃れた。 元和四年に利常が召し、苗字を浅井に戻して千石の御馬廻として仕える。 光高の側用人に転じて千五百石を受け、正保二年四月二十五日光高の柩を金沢に運び殉じた。 浅井八左衛門 父は馬場忠兵衛という。 利常に八百石で仕え御使番を務めた。 寛永六年卒。 浅香三郷 出雲出身で湯浅左馬助と称し蒲生氏郷に仕え、陸奥安積城を守備したことから安積を名乗り、後に浅香に変えた。 慶長十九年利常に仕えて、大坂夏の陣で首級二つをあげる。 三千石と与力知七百五十石で馬廻頭を務め、寛永十一年に卒。 子の作左衛門は二千五百石のみの知行、浅加と改めた。 朝倉久平 父は越前朝倉義景の八男と伝わる。 朝倉村で流浪し富山へ移り、前田正甫より五人扶持と羽織立付代銀六十七匁を受け町足軽として務めた。 享保二年十二月に致仕し九日一人扶持の養老扶持を貰い、同十年正月二十一日卒。 浅野清則 将監と称す。 天正元年織田信長に仕えて美濃堀津で一万石を領し、本能寺の変で流浪するが、文禄年に利家が千二百石で招く。 利長は二百五十石を加増し、利常は寛永三年正月に五百五十石を増した。 二千石で御小姓裁許を務め京御留守居となるが、同十四年に在任中に卒。 嫡男清益は千五百石の御馬廻、利次に付き富山へ移る。 次男の十兵衛清次は西国にいたが、元和元年に金沢に召されて五百石で出仕した。 足立守貞 源兵衛を称し徳川家康から小田原で百五十石を受け、御鉄砲役を務めていたが、珠姫に付いて金沢に来て利常から七十石を受ける。 嫡男の貞春が病没していたため次男の八兵衛が継ぎ、利次に付いて富山へ移り安達と改めた。 安達恭道 父の真柄長三正利は若狭守護の武田一門であり、蒲生氏郷に招かれ安達郡を預かり改姓した。 恭道は五兵衛を称し、寛永十三年利常に三百石で仕え馬廻となる。 利次に従い富山へ赴任し小姓番を務め、寛文七年卒。 孫の恭次は親類の富田弥五作弟を末期養子にし 平馬恭桂 継承、その次男周蔵弼亮は兵学師範となる。 安達弥兵衛 父の藤左衛門は朝倉家臣であり刀根山合戦で討たれる。 弥兵衛は元和六年に五百石で利常に仕えた。 姉崎四郎左衛門 荒子以来の家臣。 子の権太夫は四百五十石を受け、継いだ勘右衛門は利長に近侍する。 荒木善太夫 大膳・善太夫・六兵衛と称し、荒木摂津守村重の子という家伝がある。 また別に次のような伝もある。 蓮如の門人で近江出身の洲崎兵庫に慶覚 泉入道 という子がいて河北郡や石川郡を横領し、本源寺家老松田次郎左衛門を米泉の館で謀殺する。 次郎左衛門の甥石浦主水と舎人の馬捕三右衛門は逃れて、三右衛門は妻子を荒木に隠す。 その子が六兵衛後の大膳 太夫坊・大坊 で正円寺を建て石山合戦に参加し、尉ケ鼻 城端 で築城する。 なお慶覚は享禄四年に討たれた。 小右衛門の代に前田利長が鷹狩で宿泊した縁で仕官し、館は善徳寺に寄進したという。 とにかく城端城主であったが、利家に仕えて千石を知行、八王子の合戦で奮戦するが、二度目の出撃で没した。 子の善太右 兵太郎 は二百五十石の御使番であったが、慶長五年の大聖寺での戦いで没。 有賀直政 美濃出身で秦氏。 通称は秦六、号は有賀斎宗元。 越前の朝倉義景に仕え、滅亡後に利家に仕え四千石。 慶長八年七月三日卒。 子の長治 秦四郎、秦六 も父と義景に仕え、加賀寺井の平定に功績があった。 利家に仕え、天正十八年の八王子合戦で奮戦して利長から賞せられ、父の跡を継ぐものの致仕する。 弟の左京直治が兄の辞した後にしばらくして利長に仕え、大聖寺の戦いで活躍し七百石を知行、高岡町奉行を務め、元和元年に卒。 妻は前田利益の娘。 有沢長俊 兄は弓庄城土肥政繁の重臣有沢図書助。 采女を称す。 天正十一年四月三日に弓庄城が佐々成政に包囲され八月三十日に開城すると政繁は越後へ逃れる。 翌年九月六日に政繁は上杉勢と境城を猛攻撃して落とし、宮崎城を攻略して滑川に火をかけ越後へ引き上げた。 しかしわずかな知行で生活は苦しく、能生で病没する。 図書助は政繁に従い越後へ行き、上杉景勝に仕えて信濃へ使いに出た際一揆勢に出くわし討たれてしまう。 弟の長俊は政繁長男土肥半左衛門と最上義光に仕えたが、最上家中の紛争で半左衛門は一族と討たれ、長俊は船で脱出し能登に着いた。 利常は千石で迎え、子の孫作は高岡町奉行を務める。 またその子の九八郎俊貞 永貞 は甲州流兵学等を学び、富山藩藤井半知 遠近道印 と交流し地理の知識を深め、加賀や富山に伝えた 安達家が富山藩で伝える。 安藤長左衛門 大坂の陣後に鉄砲頭や足軽頭を務め、万治元年に小松へ従い千五百石を知行する。 氷見の万尾や砺波郡中村・久留須村に知行地がある。 寛文五年十一月十二日卒。 子の長兵衛は牢人した後幕府の旗本になった。 飯尾市丞 美濃の金森一族。 父の金森掃部は豊臣家臣となり、元和三年利常に千石で仕える。 子の市亟は母方の叔母婿九郎左衛門の養子となり大坂城の豊臣秀頼に仕えた。 九郎左衛門は慶長十七年に卒し、大坂城が落城したため、元和三年に姉婿の長沼左馬進を頼って金沢に来る。 同六年に左馬進が卒し、後を継いだ外記が幼少であるため代番になって五百石を受けた。 成長後に致仕したが、寛永十一年光高に召され仕える。 天和三年卒。 生田正俊 父は朝倉義景の家臣。 朝倉滅亡後に寺尾勝太郎の名で佐久間盛政に育てられ、天正十一年賤ヶ岳で加藤清正と鑓合わせする。 利家に召され二百俵、松任で利長に仕え加増を重ねる。 同十六年に生田四郎兵衛と名乗り、同十八年小田原、慶長五年大聖寺で戦う。 八月に三百石となり御徒弓之者に十五人を任せられ、その後も加増を重ね同九年閏八月六百五十石となって宮崎蔵人とともに新川郡中銀山之儀等裁許を務め、同十二年徳川家康への年始祝いの使者として駿府を訪れ、時服を拝領する。 高岡で近習として務め、大坂冬の陣では御弓之者裁許を辞し母衣を纏って使番を務める。 夏の陣では新川郡の御用となり、千石を知行する。 元和六年四歳の利次に付いて江戸で徳川秀忠に謁見し時服を頂戴する。 寛永八年に利次が具足を付ける式では、御規式御用として御膳を献上、黄金を頂戴した。 分藩で富山へ赴任し同十七年十一月に二百石を加え千二百石に到る。 正保二年二月に八十一歳で卒。 利常より拝領の若狭盆の写・万里小路大納言より下された漠丸茶壺・松ケ台で狸を切った腰物を献上する。 池上無兵衛 菊池武勝の親類で、武勝の下に立ち寄った際に大聖寺の合戦があると知り従軍して百五十石を受けた。 子の無兵衛は利次と富山へ移る。 池田久兵衛 松任城にいたが柴田勝家により落城 天正八年に若林長門守が謀殺されたと伝 して牢人し、慶長頃に利長が百二十石で召し、定番御馬廻として務めた。 生駒勘右衛門直勝 結城朝光の末裔直広は吉田氏を称し、子の監物直久は朝倉氏に仕える。 継いだ又左衛門直元は織田信長に従い、森可成の娘を妻にした。 その子勘右衛門直勝は信長の子とも噂され、元亀元年七歳で信長の近侍となり、生駒を称す。 天正四年十三歳で石山本願寺との戦いに功を挙げ感状と佩刀を賜り、豊臣秀次に仕えて伊勢で二千石、従五位下・内膳正にまでなる。 その後に織田信雄に仕えて四千百石であったが、慶長五年に致仕し、翌年加藤嘉明に仕えて四千石、同八年に前田利長の招きに応じ五千石で仕え、高岡に従う。 利常の時には江戸の芳春院に近侍し、同十九年五月十三日五十一歳で卒。 嫡男の内膳直義は四千五百石、次男八郎右衛門は千石。 直義は利常に従って大坂の陣に参陣し、前田利次の傅役となる。 妻は織田信雄の娘。 寛永十五年に卒。 生駒成直 五郎兵衛を称す。 祖父五右衛門は生駒讃岐守一正に仕え、父の図書は豊臣秀頼に仕えていた。 成直は寛永十八年に光高のもと七百石で仕え、津田に改名した。 石黒成高 木舟城主石黒成綱は天正九年七月六日に信長と会うための佐和山への途次に長浜で丹羽長秀に攻められ、一族三十余と自刃する。 次女との婿養子琴之助政輝は、実父が越後の柿崎虎政である関係から須川の間道から能登へ逃れて虎政の娘婿温井重氏を頼り、松波で隠棲する。 その子孫兵衛政知は高岡で没。 成綱の次女は木舟に身を寄せていた京の幸塚式部左衛門尉義基と城下の宝性寺に逃れ、金屋本江の長百姓長太郎に匿われた。 その子義兼は父と京へ移って茶や歌を学び、やがて母を呼び寄せたが、父の没後に高岡へ移って町人本江屋八右衛門を称したという。 妻は参議藤原業房 万里小路か の娘と伝わる。 成綱側室の子である判兵衛は天正十四年に江戸へ行った。 成綱の弟国信は城を守っていたが、織田勢に追われて五箇山から伊勢宇治山田に到り神官の二見太夫に匿われた後に高野山へ逃れ、天正十三年越後を頼ろうと宮ノ腰で船を探していると、旧知の村井長頼に説得され利家より四千石を受け湯原を名乗る。 慶長十八年に卒。 ただし国信には本能寺の変で魚津城より撤退する織田勢を追撃したとの伝もある。 成綱が政輝を養子にした後で生まれた左近成高は城が織田方に攻められた時五歳であり、父の叔父九郎左衛門成家に連れられ城を出て、成家の二人の子彦左衛門と多左衛門とともに金沢へ行く。 成家は湯原国信の仲介で利家に仕え千五百石、成高は七百五十石を受けた。 家老の石黒与左衛門は長浜で戦没するが、子の新左衛門光秋とその子七右衛門は金沢に逃れ、七右衛門は町人になった。 石黒一族については別説もある。 石黒大炊助光教に四子いて、長男治部少輔成観の子九左衛門成栄は能登で利家から千五百石、その子彦右衛門為家は文禄三年に七百五十石を受け利長と富山へ移る。 次男藤兵衛の子大炊助成定の子が左近蔵人成綱で、その子左近成重が前田家に仕える。 三男彦次郎光度は織田信忠に従い天正十年に戦没、四男善九郎房勝は天正九年利家に仕える。 以上の系図には時代的に無理があるように思われる。 石黒左近の娘婿井野牧清は利長より百五十石を受け、その子小右衛門からは石黒を称す。 この他にも利家に金沢で従った石黒市兵衛 子の与左衛門は利次に付き富山 や利次と富山に来た石黒七兵衛がいるが、木舟城との関係は不明。 成綱の六男善右衛門が砺波郡中田村に逃れ、般若村茶ノ木に移り、子の豊三郎が富山へ出て、次の三郎右衛門が東四十物町で薬種舗を開く 茶ノ木屋 と伝う。 神保氏張に従っていた石黒采女は利家に二百石で仕えている。 魚津金山谷城の石黒左近入道道春の養子隼人は上杉勢の攻撃で加賀一の宮に退去し、天正十二年に利家の招きで仕えたという。 子の九兵衛は利長・利常に仕え、百石で腰物奉行を務める。 磯野三茂 代々近江の磯野山城に住み、新右衛門三茂は伊香郡唐川村へ移る。 元和七年に二百五十石で利常に仕え、利次に付いて富山へ移る。 三百五十石を給すが病気がちで、寛文四年に隠居し、延宝二年に卒。 板津了甫 越前の堀秀政に仕え、白山に住んでいた。 歌道・相学に詳しく、連歌を里村紹巴に学んだ。 金沢城の利長は子の左兵衛直頼ともども招き、了甫は二百石を受け、慶長十九年に高岡で卒。 直頼は利常より三百石を受け大坂の陣に従い、連歌を指導し、明暦二年に卒。 その子直清は利次と富山へ移る。 一色照昌 主膳と称す。 父は秀吉に仕えた民部大輔。 宇喜多秀家より一万石を受けたが、関が原以後は利長に二千石の足軽頭で仕えた。 慶安三年卒。 伊東才治 父の伊藤治郎は柴田勝家の家臣で、北ノ庄陥落の際に妊娠中の母が旧知である金沢の斉藤喜兵衛方に移り、具足師の岩井市右衛門宅で才治を産む。 十八歳で利常の御具足御用を勤め、細工の修行に出るが、利次が富山へ移るための御用で金沢に戻り、慶安頃に利次から才治の倅一人を富山へ寄越すよう依頼があり、次男で十六歳の長左衛門を遣わした 十人扶持の御具足方。 伊藤重延 外記と称し、元和二年に利常から千三百石を与えられ、後に二千三百石に到った。 伊藤利吉 伊勢の出で盛正や盛宗の諱も用いる。 父の盛景は織田信長の馬廻として台頭し、秀吉に仕えて小田原合戦で活躍した。 父を継いで美濃大垣城主となり、関が原では松尾山城に陣していたが小早川秀秋に譲らされ、戦闘でも敗れて改易になる。 福島正則に匿われた後に、元和六年金沢に移り二千石を受けた。 同九年に卒。 伊藤内膳 祖父は大和宇陀郡の伊藤甲斐守、父は掃部。 元和五年に利常から千五百石を受け、後に三千三百石に到る。 御馬廻、高岡町奉行・算用場奉行・検地奉行を務め、万治三年人持組入りする。 寛文四年に隠居し意休と号し、同九年卒。 稲垣與三右衛門 天正十二年利長に仕え九百俵、青山吉次と魚津城に赴任した。 與右衛門とも記され、高岡城の築城にも携わり、大坂冬の陣では高岡城を守っている。 子の三丞は三百石である。 稲葉直富 左近や正福と称し、慶長末に稲葉正則 春日局の孫 の推挙で利常に仕え五百石、大坂の陣では旗奉行を務めて千八百石になる。 ただし利長の小松出陣に従い水越縫殿助・岩田伝左衛門・井上勘左衛門等とともに丹羽勢と戦ったとの伝もある。 元和・寛永頃には郡奉行・算用場奉行・公事場奉行・作事方総奉行に就任し四千石、能登を任されると能登を知行する家中を越中へ移して利常の直轄を増やす。 恨みを買い金銭面での不正を訴えられるが弁明を拒み、利常は捨て置くよう沙汰するが、当主が光高に替わると主命で寛永十八年七月 二月二十八日とも に弟の宇右衛門と自刃。 井上長政 父は加賀の善左衛門。 勘左衛門を称す。 利家に五百石で仕えて文禄年に致仕。 慶長六年利長の代に戻り千三百石で仕えた。 井上兵左衛門 父は土佐守で堀秀政の家臣。 宇喜多秀家に仕え、牢人した後に元和二年利常へ千三百石で仕えた。 井口茂兵衛 祖は近江浅井家臣の井口弾正 浅井長政生母の実家。 利家に千石で仕えた。 茨木助右衛門 父の斎藤源助と利家に仕え、茨木と改めて二百石を受けた。 大坂夏の陣では二ノ丸塀下で首級一を挙げる。 元和三年卒。 今枝重直 初め定直、通称は弥八郎。 父は美濃の今枝八郎左衛門で、内藤伊賀守に六千石で仕えた後に斎藤道三に属した。 重直は元亀元年六月の姉川合戦で稲葉伊代守に従い首級十七を挙げ、翌年五月の伊勢長島攻めで織田信長方の安藤守就 伊賀伊賀守 に属し、織田信雄に仕えて小牧山合戦に参陣した。 その後秀吉や秀次に従い、文禄二年尾張で五千三百石、同三年従五位下・内記に任ぜられるが、秀次事件で牢人、同四年九月に利長の招きで守山へ赴き三千石、後に五千五百石を知行する。 滑川城を守備したと伝う。 利常と大坂の陣へも参加した。 元和五年に六十六歳で致仕して宗二と号し、養子の直恒 父は日置猪右衛門忠勝・母は重直の妹 に五千石を渡して隠居料五百石、寛永四年十二月二十三日に七十四歳で卒。 今村国光 藤二郎と称す。 利家に仕え、宇出津で浦目付に任じられた。 天正十二年五月魚津に在陣していた利家から沿岸を警戒するよう命ぜられた。 文禄三年に伏見城普請が割り当てられ、この担当を任されながら身が入らず、六月十五日に追放された。 子孫は鳳至郡黒島村で徳左衛門を称す。 今村才右衛門 越前で丹羽長秀に仕えていたが、利長に仕えて宇野平八に付けられ八王子で奮戦し負傷する。 守山岩淵の騒動で平八が切腹を命ぜられたため、横山長知に付き二百石となって大聖寺合戦で奮戦した。 今村兵部 天正八年に三百石で利家に仕える。 子の藤次郎は天正四年に府中で利家へ三千石 与力知を含む で仕え、利政に属した。 慶長四年に卒。 入江直忠 新右衛門を称し、讃岐の生駒親正に仕えて千石であったが、関が原の後に致仕し大坂の陣では大坂城に籠った。 逃れ隠れ、寛永四年に利常の招きに応じて百五十石で仕える。 寛永五年十月一日卒。 子の直親は利次に付いて富山へ赴く。 岩田栄庚 勘右衛門と称し、慶長五年に大聖寺の陣に参陣し七百石で利長へ仕え、後に千石となる。 大坂の陣で御馬廻組頭として働き、寛永十一年利次付きとなって千二百石、同十八年富山へ御馬廻として赴任した。 正保三年に卒。 岩田盛弘 伝左衛門・勘右衛門・内蔵助と称し、父の左馬助は滝川一益に仕えて天正十八年に小田原合戦で戦没する。 太田長知に付いて大聖寺に出陣し浅井畷で功を挙げ、感状と刀一振・黄金三枚を賜う。 慶長十二年利長から千石を受け、大坂の陣では旗奉行を務め千五百石に到る。 元和三年に辞して松平忠明や堀直寄に従うが、正保二年に光高の馬廻に復した。 隠居し休徳と号し、慶安三年卒。 魚住隼人正 尾張春日井郡鹿田村の生まれで織田信長の馬廻。 永禄三年五月今川義元を討った桶狭間の合戦、同十一年池田勝正の拠る摂津池田城攻めで活躍する。 天正八年に監察使として加賀の佐久間盛政の陣を訪れ安土に報告している。 本能寺の変以降は利家に招かれ家臣となった。 天正十三年秀吉の越中入りでは金沢城を守る。 牛田助左衛門 利長に仕え守山城に勤務するが、利長の指示に従わず、横山長知により成敗された。 内田清左衛門 慶長九年二月に加賀で利長に仕え、三十俵の御徒組となり、元和七年十二月に利次五歳の江戸参府に御供して、富山へ赴任し寛永十八年に御広式御番を務めた。 三十五俵になって、寛文三年隠居し、延宝五年に八十一歳で卒。 浦上治部 慶長八年に七百石で利長に従う。 元和九年卒。 長子又右衛門は利次、次男久右衛門は利治に付く。 大井直泰 久兵衛を称し、府中で利家に仕えた。 前田安勝に従い能登を守り、天正九年からは三輪吉宗とともに能登の行政を任される。 千二百五十石で、子の厚用から大音を名乗った。 元和元年に隠居する 隠居料五百石。 大石木工助 父の幸与軒は北条家臣として八王子に戦うが、天正十八年の落城で、木工助は利家に四百五十石で仕える。 叔父の保坂庄兵衛は前田利豊に仕えて七日市に移った。 大石秀久 杢之助の称であるが、天正十五年十三歳で利長に仕えている。 僧職にあり金叟と名乗っていたが、還俗を命じられ杢之助を名乗ったという。 大聖寺に出陣し、四百三十石となる。 寛永三年九月六日徳川家光の上洛に利長が御供することになり、秀久も従って上京するが、十一日に五十二歳で急逝する。 長子斎宮は三百石、次子秀重は利次と富山へ移る。 大河原助右衛門 父の源五左衛門は徳川家康に仕えている。 助右衛門は織田信長に仕え、天正十八年に七百石で利長に足軽頭として仕える。 大坂冬の陣に参陣し、十二月四日真田丸で討たれた。 大河原長貞 五左衛門と称す。 父の藤大夫は越前の松平 結城 秀康と忠直に仕え、寛永十三年に光高から二百石を受け御使番や御聞番等を務める。 天和二年卒。 大久保秀敏 嘉助と称し、小田原城主大久保忠隣の側室の子であるという。 天正十一年八月利家に彦根で仕えて四百俵、慶長六年七月に利長が百石加増し、宗左衛門と改めた。 子の六右衛門敏一は百五十石で、寛永十五年に氷見御代官を務めている。 太田長知 長行 喜藤次とも称し、父は孫左衛門。 芳春院の外甥でもある。 天正十五年二月の巌石城攻めで奮戦し、同十八年の八王子城攻略で活躍する。 慶長二年九月に但馬守・一万五千石となり、同五年の大聖寺や浅井畷での戦いで功を挙げ、大聖寺城を任された。 徳川に従うことを嫌い、利長の説得にも容易には従わなかったため、同七年に横山長知等により討たれる。 太田長之 近江太田村の出身。 利家に荒子で仕え、式部を称す。 府中へ供し傍らに従った。 二千石を知行し、後には太田村に戻り寺を建て、慶長二年三月一日に卒。 子の喜左衛門長政は同十二年八月に三百石で召され、藤懸勘兵衛と改める。 大橋常成 又兵衛や九郎兵衛を称し、浅野長政に三千五百石で仕えていた。 致仕して慶長四年に千石で利長に仕え足軽頭を務めた。 大聖寺出兵では小荷駄奉行を務め、三百石を加増。 同十七年二月卒。 嫡男時成は大坂冬の陣で先手物頭を務め、十二月四日笹山で鉄砲に撃たれた。 次男の長成は夏の陣に青屋口で首級一を挙げている。 大平左馬允 前田利家に仕え、九州の陣で巌石城への攻撃に先駆けた功で秀吉から賞される。 千百俵、旗奉行を務め、金の番取衆との評価であった。 子の左馬允 介 秀照は五百五十石を知行し、大坂冬の陣では足軽頭や旗奉行、夏の陣では二の丸で首級一を挙げた。 大屋奥右衛門 利家に三千石で仕えた。 守山で利長に二百石で仕えた大家とは別か。 子の孫七郎は千五百石を受けたが致仕し、丹羽長重に従う。 改易後に流浪し、岡本文兵衛と称した。 その子佐内は横山長知に仕え、大坂の陣では堀田図書丸で奮戦し、白銀二枚と帷子二を賜った。 岡崎三世 采女と称し、慶長十九年利長に三百石で仕えた。 大坂の陣では御馬廻として利常に従い、寛永十五年卒。 子の以世は利次と富山へ移る。 岡島一吉 尾張出身で喜三郎や帯刀左衛門と称す。 利家には十七歳の折に府中で仕え百五十石を得る。 天正九年に八百石を加え、同十年越中で佐々成政を支援し上杉勢と戦い二千石を増、同十一年柳ヶ瀬で活躍し千石増、同十二年末森合戦で功を挙げ二千石増、同十五年九州で巌石城攻め、同十八年小田原攻めで活躍し四千石を増、備中守となる。 慶長五年に大聖寺での戦いに功を挙げ千八百石を加増、都合一万千七百五十石に達した。 大坂冬の陣では先鋒を務め、夏の陣では利常に頼まれ高岡城を守った。 元和五年八月六十一歳で卒。 子の右近 帯刀左衛門 一元も利長に五百石、後二千五百石で仕えたが、利家薨去後に致仕して越前の堀秀治に五千石で仕えた。 その後帰参して大坂の陣に従い、父の跡を継いで人持組頭を務めた。 岡田重持 兵内と称し、利家に天正五年府中で出仕し二百石。 天正十年五月魚津での合戦、六月能登の温井・三宅勢や石動山との合戦に従い、帰陣後に能登で百石を加増され、三百石となる。 慶長十九年に隠居し金沢で卒。 岡田長右衛門 天正年に府中で利家に仕え七十石。 右筆や算用場奉行を務め数字に強く信任が厚かった。 能登で同僚の新川儀太夫と争い隻眼になったという。 四千石に達し隠居 二千石 、元和五年五月卒。 興津一正 里庵と称し、守山で七十石を受けた。 その後二百二十石となり、寛永元年三月に卒。 奥野氏昌 越前府中で利家に仕え、讃岐守・五千五百三十石に到る。 嫡男采女氏斐は利長に小姓として出仕し千石となるが、不興を買って致仕し京で卒。 次男の氏清が継承し紀伊守に任ぜられる。 氏斐の子清右衛門氏宗は寛永十五年に帰参し、利次に付いて富山へ移る。 奥野弥一郎 父は与兵衛。 蒲生氏郷の家臣で、その後に利家へ仕える。 末森城での戦いに功があり、五千五百三十石、讃岐守。 慶長十二年に卒。 孫の主馬は前田利政の姫を娶る。 奥村永福 祖父は藤原公綱の末裔という 筑前福留氏や平氏とも 赤尾忠利で尾張中島郡奥村に居す。 父助右衛門宗親は織田信長から荒子村に土地を与えられ、奥村を名乗った。 その長男利久は代々荒子村に住む。 次男の助十郎 助右衛門 家福、後の永福は天文十年清州で生まれ、前田利昌や利久に従う。 永禄十二年の利家相続に反対し致仕、天正元年の朝倉義景との合戦で帰参する。 同三年五月長篠合戦に従い、九月府中に移って百石、同十年能登へ入って石動山を攻め、同十一年五月末森城を任せられる。 同十二年九月の佐々勢による攻囲戦を退け、利家から感状と利家着用の甲冑・太刀に馬印を添えて贈られる。 この合戦の折には妻の安 尾張の加藤與三郎娘 も女中を率い、水が臭いので濾過し蒸してから料理に使ったと伝わる。 同十五年四月豊前での巌石城攻めで負傷するが、同十八年の小田原合戦に従軍する。 文禄四年三月に従五位下・伊予守となり、一万千九百五十石に達した。 慶長四年に致仕し 隠居料三千石 、剃髪して快心と号す。 それでも同十九年の大坂の陣では金沢城代を任された。 寛永元年六月十二日八十四歳で卒。 子の助十郎 織部 栄明は永禄十一年に荒子で生まれ、十七歳で末森合戦、同十八年には小田原に従軍し二千石、慶長元年に従五位下・河内守となる。 父の致仕で六千六百五十石を認められ、利家から二千石を加えられる。 同五年の浅井畷合戦で功を挙げ二千石を加増、大坂の陣での働きで千石を加え、都合一万三千六百五十石に達した。 弓の技に優れ、前田光高誕生の折には鳴弦蟇目 弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により気を祓う退魔儀礼で鏑矢を用いた の技を披露したという。 元和六年五月二十日に五十三歳で卒。 栄明の弟三郎兵衛栄頼も利長・利常に従い八千石。 横山長知が致仕した後に重用されるが、長知の帰参で焦り、大坂冬の陣で兄の言うことを聞かずに真田丸を攻めて失敗して疎んぜられ、夏の陣には従わずそのまま致仕し、江戸で幕府に内情を暴露するに及ぶが取り上げられず、寛永八年四月四日に京で卒。 一族と思われる治右衛門も荒子以来の家臣であるが、守山で利長に討たれたという伝がある。 奥村具知 播磨国赤穂浅野家臣大石良勝 近江出身で祖は藤原秀郷、浅野長政三男長重と子の長直に仕え常陸笠間から赤穂へ移る の三男は金沢で奥村蔵人具知と称し、寛永十六年三月に利常から二百石で召し出され利次に付く。 同十七年十月に富山へ御供し御用人、後に千五百石となって家老へ進んだ。 延宝七年二月十八日卒。 なお良勝の長男良欽の養子 実は孫 が吉良邸へ討ち入りした義雄である。 奥村三尚 父の加藤弥平太尚長は織田信長や豊臣秀吉・秀頼に仕え、大坂落城の際に千畳敷で追腹二十五人の一人となる。 弥左衛門三尚は小早川秀秋に仕えた後に加藤清正のもとに移り奥村と改める。 加藤忠広が改易となったため浪々の身となり、寛永十八年利次が五百石で召出したが同年病没する。 子の平馬三義は御小姓組から御大目付、公事場奉行、屋敷奉行、定番足軽頭、勘定奉行、江戸御用所御勝手方、御留守居を歴任し、老年になっても宝永二年に前田右近 利由 に付き、歩くことが困難なため御式台まで駕籠で行くことが許された。 同五年卒し、嫡男定右衛門三澄は既に名代として勤務、次男は富田弥右衛門の養子となった。 小瀬秀正 永禄七年に尾張春日で生まれ、美濃の土岐一族と言われる。 太田牛一と同郷、号は甫庵である。 池田恒興に医者として仕え、天正十二年より豊臣秀次、文禄四年より宇喜多秀家、慶長五年から堀尾吉治に仕えた。 慶長十六年に『太閤記』、寛永十年に『信長記』を記す。 寛永元年に子の素庵と利常に二百五十石で仕える。 同十七年八月二十一日に卒。 織田長政 織田長孝 父は長益 の次男長政は利常に従う。 三男織部は三千石で前田利治と大聖寺に移る。 四男長光は村井長次 長頼の子 の養子。 織田一門は津田を称して全国に散る。 織田左馬允次男津田長門守道慶の子小平次興庵は織田信長や徳川家康に仕え、その子平左衛門は旗本であり、もう一人の子宇右衛門正重は、寛永十一年に利常から千三百石を受けている。 織田信長の従弟に当たる織田左近将監 父は津田隼人正 は秀吉に仕えた後に牢人し、利家に千五百石で仕えた。 津田下野守長意と名乗る。 織田信長の末子という宗十郎の子覚兵衛は、慶長四年に四百石で利家に従う。 織田信長の子という源三郎勝長の子源三郎勝良は津田を称して、慶長七年に六百石で利長に仕えた。 織田信秀の弟という孫十郎の子宗五郎は孫十郎と称して秀吉に仕え、その子孫十郎は五百石で利常に従う。 小幡右京 父の九兵衛 ~慶長十七年 は松倉城の椎名康胤の甥 娘婿 神前和泉の子で、椎名家老の小幡九兵衛の養子になり、再婚相手の連れ子は利家の側室になり利常を産む。 嫡男右京は利常に付き、やがて一万石を知行する。 次男宮内長次も利常に付き、後には家老・金沢城代を務め、寛文四年に隠居し不入と号した。 娘くには前田直之 前田利政の子 の正室。 小幡駿河 祖父尾張守は上野峰城主、父の弾正には三子あり。 長男の駿河は七千石で利常に付き、次男右兵衛は天正八年千五百石で利家に仕え、三男囚獄は四千石で利長に仕える。 駿河の子播磨は、秘蔵の皿を割った女中菊を手討ちにし、その恨みから過失を犯して謹慎になり没したと伝う 金沢古蹟志。 番町皿屋敷が転じた話であろう。 子の伽耶院は石動山に入っているので、何らかの事件があったのかもしれない。 囚獄の子五郎右衛門は百五十石で利次と富山へ移った。 小幡長正 前田安勝に仕え百石。 元和二年に利常の馬廻に転じ、利次に付く。 明暦三年五月卒。 笠間與七 與七郎 朝倉義景の家臣であったが、府中で利家に従い三百五十石を知行する。 天正十四年に卒。 梶川弥左衛門 慶長年に利常へ七百石で仕え、大坂の陣では御使番を務め、夏の陣で負傷する。 二千石となり利治と大聖寺へ移った。 加須屋 糟屋 十左衛門 父は賤ヶ岳七本鑓の助右衛門真雄 正之助・数正・武則・宗重・真安。 慶長五年に関が原で西軍として戦い敗れ、同七年十月に父が五百石で幕府の旗本、十左衛門は同十二年に五百石で利長に仕えた。 片岡助左衛門 天正八年に二百石で利家に仕え、御馬廻を務めた。 片岡知乗 三右衛門を称し、天正十八年に利家の下に参じ、翌年百三十石を受ける。 大聖寺での戦いに加わり二百三十石に加増され、金の番取衆に加えられた。 慶安元年卒。 片山延高 若狭小浜の出身で、内膳とも称した。 府中で従い八十石、多くの合戦に従い、能登での築城に功があり、阿尾城では鉄砲隊を束ねる小塚藤十郎等とともに前田利益を補佐し、佐々成政降伏後には白鳥城や大峪城を守る。 加賀手取川堤普請にも尽力した。 石高は一万石 一万三千石とも に達し、慶長二年九月伊賀守に任ぜられ、徳川家康との交渉役でもあった。 それが利家や利長の疑念を招き、同四年閏三月十日大坂で松田直憲等により討たれる。 一族はその後徳川や伊達を頼った。 勝尾半左衛門 父は美濃の稲葉良通 一鉄 に仕えた垂井の喜多尾崎左衛門である。 良通から勝尾の名を与えられ、天正十八年から利長に二百石で仕えた。 葛巻隼人 藤十郎や喜一郎と称し、父は近江の大野木主計介。 幼い頃に父と別れ、母と外祖父の浅見新右衛門に従い越前へ行き、母の再婚の際に葛巻十右衛門の養子となる。 十六歳の時に守山で利長に仕え百五十石、以降数々の戦いに参加し千二百五十石となる。 大坂の陣では使番として活動し、夏の陣では矢疵二か所を受けながら働き五百石を加増、寛永八年には都合四千石に達した。 小将 小姓 頭・旗奉行・人持組を務め、同十六年に隠居するが、光高の命で復職して富山城を守り、利次への分藩を助けた。 正保元年金沢で養老俸千石を別に貰い家老となり、慶安三年小松の利常に近侍し百石を加えた。 同四年七月十七日七十七歳で卒。 勝山左門 蒲生家臣であったが牢人し、歌道に心得があり金沢に来て左順と改め坊主組に入る 元和五年三人扶持と銀子百目で御坊主並。 利次と富山へ来て御茶所下附となる。 延宝元年十月に致仕した。 加藤重廉 市左衛門や宗兵衛と称し、父は図書助順光。 織田信長に仕え柴田勝家に属して勝山城を守る。 その後丹羽長秀に従い、天正十三年に佐々成政からの招きで富山へ赴く途次に松任で利長に説かれ、金沢で六千俵を受けた。 慶長五年に大聖寺の合戦で旗奉行を務め、石見守・三千五百石に達したが、同七年金沢城の火災で火薬庫が破裂し大怪我を負う。 翌年正月十二日に卒。 長男里重は尾張に生まれ、六歳の折に父と利長に仕え八百俵の近習となり、以降利長の近くで戦う。 慶長七年に相続して三千石の人持組、大坂の陣では負傷しながら図書丸に侵入し式台に放火する働きを見せた。 寛永十八年江戸で留守居役を務め、万治二年二月卒。 次男の重澄 重政 も慶長四年に利長のもと三百石を受け、兄弟で大聖寺の戦いに功を挙げ、大坂の陣では兄と同様に傷を負いながら奮戦し、千石を知行するに至る。 慶安三年六十六歳で卒。 加藤高綱 新左衛門と称し、慶長十五年に二百石の御馬廻として仕え、大坂の陣に従う。 寛永元年卒。 加藤直一 長右衛門と称し、加藤清正側室の三男と伝わる。 天正十七年に守山の利長が二百五十石で召し、算用場奉行等を務めた。 寛永十五年卒。 子の直恒は利次と富山へ移る。 加藤三尚 父は弥平太尚長と称し、織田信長に仕える。 その後は豊臣秀吉や秀頼に仕えて、大坂落城の折には千畳敷で追腹する。 子の弥左衛門三尚は小早川秀秋や加藤清正に仕え、遠慮して奥村と改名した。 加藤忠広改易後に牢人し、寛永十八年利次から五百石を受けたが、同年中に卒。 加藤清茂 新川郡月岡村に牢人していた隼人の次男で鎌之助と称す。 慶長三年利家に仕え、同十七年に卒。 金岩與次之助 尾張金岩村に生まれ荒子で利家に百五十 二百 石・御馬廻として仕える。 利長の供で上京途次に本能寺の変に遭遇し、永姫を守り荒子へ避難させる。 子の次郎助は二百六十石、源太郎は五十石で利長に仕えた。 金森掃部 父の掃部は美濃の長井隼人正に仕え、永禄十年の織田勢による稲葉山城陥落で牢人し慶長年に卒。 掃部は秀吉と秀頼に仕え、大坂城の陥落で元和三年利常に千石で招かれた。 可児才蔵 可児 かに 吉長や笹の才蔵とも名乗り、天文二十三年に美濃の可児郡に生まれる。 覚禅房胤栄に宝蔵院流槍術を学び、斎藤龍興に仕えたが、織田勢の前に敗れ柴田勝家に従い、辞して明智光秀に属す。 山崎合戦以降は神戸信孝に仕えたが、天正十一年自刃後に羽柴秀次の家臣となる。 小牧長久手の合戦で秀次と対立し飛出し、佐々成政の下に走るが、早々に利家の所へやってきた。 末森合戦で活躍するが、同十三年越中から利家に従い金沢への道すがら、倶利伽羅で砺波平野を見ながら思いに耽っている利家に天下を取る野心がないとみて出奔、福島正則に七百五十石で仕えた。 小田原攻めでは韮山城攻撃の先頭に立ち、関が原でも首級十七 耳や鼻に篠笹を入れ家康に供覧したとの伝 を挙げ五百石を加増される。 隠居し才人と号して竹葉軒に住み、慶長十八年六月二十四日に六十歳で卒。 安芸国海田と広島の中程にある矢賀山の麓に土葬された伝う。 蟹江宗久 父の與兵衛は天正頃に加藤清正に仕え、肥後で八代城を守るが、元和元年に病没。 宗久は若年ながら五千石 うち与力知三千石 と三十騎を預かり、小姓頭や刀番を務めた。 小西行長の所領肥後宇土での合戦では与力五十騎を付けられている。 寛永九年に加藤忠広が改易になると牢人し、翌年利常は子の利房とともに招き、主膳宗久には二千石、利房には四百石を給した。 利次に付いて富山へ移り、同二十年五月に卒。 神尾之直 五郎八や図書を称し、尾張の堀田安休が父であるが神尾甚右衛門の養子になり、養父は二千石で前田利家に従い、自身は千石で利長に近侍する。 天正十三年の鳥越合戦に活躍し、大聖寺での合戦でも功を挙げる。 高岡へ利長と移り九千石を知行、利常に従い大坂の陣に参戦した後に隠居 二千石 し宗是と号す。 元和五年に致仕し京へ移り、寛永十八年に実父一族の松本城堀田正盛に城代として招かれ五千石を知行、同二十年に七十九歳で卒。 子の秀直 初め長光 は大坂の陣で活躍し、元和五年に父の分を合わせ一万千石に達した。 神谷守孝 佐介や左近を称し、父は尾張出身の太郎左衛門。 天正末年に利家の近侍となり、文禄四年三月に信濃守となる。 九千石であったが、利家薨去後に剃髪し、高野山で利家の墳墓を造営して戻った。 利常に従い大坂の陣へ参加し三千石を加え、都合一万二千石・人持組頭となり、寛永五年丹波守に任ぜられたが、翌年六月三日に卒。 妻は中川光重の娘で利家の孫である。 亀田権兵衛 美濃土岐一族である亀田大隅岳信は森本城に拠点を持って一向一揆を束ねていた。 尾山御坊の陥落後にも従わず、柴田勝家が家老の溝口半左衛門の子宗俊を人質に差出し、ようやく和解にこぎつけた。 岳信の子三郎隼人は利家に仕える。 宗俊は岳信の妹婿となり亀田を称す。 その子高綱 鉄斎 は浅野幸長に仕え 弟俊綱の子左夫四郎は森下村で十村 、次の権兵衛は利常に仕える。 高綱が浅野家臣の時に朝鮮から兄弟が渡来し、菅野加右衛門と兵左衛門を名乗らせて預かる。 金沢に帰郷した際に同道し、利常は兄を七百石、弟を六百石で仕えさせた 別伝あり。 権兵衛は大男で大髭を生やし、大力で知られ戦いで活躍する一方乱暴が過ぎ父から義絶されたこともあるが、功もあるため一万石を下されたという。 評判は芳しくなく、夜中に盗賊に襲撃され討たれてしまう。 討ったのは津田源右衛門 慶長十年に利長と富山 や本多政重の家臣であり、捕えられ成敗、一族ともに自害した者もいた。 小松より神戸蔵人が吟味に来て報告している。 一味の御小人次郎兵衛は忍者の子であり利長が抱えて四井主馬に属させたが、部下の不祥事で逃げ、越後の鴨村で包囲され自刃したとも伝う 別伝あり。 亀田家は側室の子を奥村永福が預かり、伊予守の「与」を与えて与助と称させ紺屋の亀甲屋として町人にしたという。 河合惣 宗派 三郎 越前出身で利長に守山で仕える。 大坂夏の陣では町口で功を挙げ、五百石・足軽頭を務めた。 寛文六年十月卒。 河尻尚明 与三郎と称し、松任で利家に二百石で仕えた。 子の茂助尚久は慶長四年に守山で利長から二百石を受ける。 川野道実 市兵衛と称し、松任で利長に仕えた。 二百石・御馬廻組を務め、先祖の名である渡辺と改める。 天正十七年に卒。 子の助左衛門道次は天正十七年に出仕したが致仕し、元和九年に二百石で帰参して粂之助と改めた。 寛永十五年に卒。 河村成昭 五右衛門と称し、府中で利家に仕えたが致仕し、利長の代に帰参して三百石、後に五百石の御持筒頭を務め、金の番取衆に入る。 寛永十四年八月に卒。 河村之貞 幕府で徳川家光の側に仕えた堀田正盛と同族で、正盛より千石を給されていた。 正盛を継いだ正信が下総佐倉に無断帰城して幕政批判をしたため改易となり、河村弥三右衛門と改め御馬廻であった之貞も牢人する。 寛文二年に富山の利次が招き、剃髪して一閑と号して五十人扶持、子の四郎右衛門之治が七百石で仕える。 貞享元年に卒。 神戸蔵人 父の加助は蟹江城で戦没。 叔母が前田秀次の室であった関係で秀次や利秀に仕え千石を受け、その後利長に従い、八王子や大聖寺へも出陣する。 利常のもとで馬廻頭となり、元和元年四十二歳で鉄砲足軽を率いて大坂へ出陣するが、誤って横山長次の家臣に討たれたとも、冬の陣で真田丸に乗り入り討たれたとも伝わる。 菊田忠右衛門 利家に百石で仕え、八王子の合戦で功を挙げた。 大聖寺攻めでは足軽頭を務める。 子の兵左衛門は利家の小姓であったが辞し、大聖寺での戦いで勝手に利長の先手に加わり、塀を乗り越え負傷する。 功が認められ帰参し三十石を受けた。 菊池武勝 伊豆守・右衛門入道を称し、肥後菊池氏の後裔。 一万石とも言われる氷見の阿尾城で佐々成政の有力な与力であったが、天正十三年七月に利家は講和を説き、前田方に転じたため、神保氏張による攻囲を受けた。 成政の降伏後正式に利家の家臣となり、その頃には嫡男の十六郎安信に家督を譲っている。 安信は小田原や名護屋へ従軍するが、慶長元年に病没したため、利家は養子で摩頂山を守っていた大学 婦負の斎藤小次郎の子 に継がせた。 武勝に後見を命じたが、不満であったようで京の柴野に隠棲してしまう。 閑月斎と号し、同十一年に卒。 大学はその後菊池武直と名乗り千五百石を知行して、利常の改作法を推進した。 武勝の次男播磨も利家から千石を受ける 兄に逆らい討たれたとも。 武勝の弟正義は利家に従うことを潔しとせず出奔し、後に南部家臣となった。 北村三郎兵衛 八兵衛や作内とも称し、尾張で利家に仕え、府中で百石となる。 末森合戦で功を挙げ千二十石に到り、致仕して宗甫と号し三百二十石を賜う。 養子の八兵衛は千五百石を知行し、利長の命で桜勘助を成敗しようとし足を負傷、翌日卒したという。 木村景行 三郎兵衛と称す。 土佐守に任ぜられ八千石を知行した。 慶長四年に卒。 木村権兵衛 高畠定吉に従い、横山長知に転じて、大聖寺では鐘ケ丸の一番乗りを競って鑓疵四か所を負い四百石となる。 大坂夏の陣では幟を預けられ町口で首級を挙げ、図書丸で功を挙げたので、利常より白銀二枚・帷子二・単一を拝領する。 木村作右衛門 利家に仕え、伏見城普請に際し今村藤二郎・真柄助三郎・中川三四郎とともに出役するが、消極的な活動を咎められ、いずれも追放処分を受ける。 木村三蔵 荒子で利家に近侍し、府中に従い百八十石を受ける。 小谷や刀根山での合戦に功を挙げるが、柳ヶ瀬で戦没する。 木村重種 四郎左衛門重員の子喜右衛門重種は、守山城の利長に百石で仕えた。 子の藤兵衛重俊は慶長元年に十五歳で利長に小姓として仕え、利常の代に四百石となる。 『岩ケ淵喧嘩記』を著し、延宝二年に九十三歳で卒。 木村助兵衛 父の加藤新九郎は信長の家臣であり、木村土佐守景行の甥にあたる。 助兵衛 初め三郎兵衛 も信長に仕えたが、牢人した後に、慶長五年木村と改名して利長に二百石で仕えた。 同十九年卒。 木村宗明 父は利家に三百石で仕えた加兵衛、兄彦右衛門は渡瀬を名乗る。 主計と称し、利長に仕えて千七百石を知行していたが、木村重成 母は豊臣秀頼の乳母、幼少から秀頼の小姓 の叔父であったことから致仕して大坂城に入り幕府軍と戦うが、落城後に加賀へ帰り梅田に住んだ。 子の弥五作と小左衛門は父方の伯母婿という中村弥五左衛門 三百石 の養子になった。 久郷吉信 文禄四年に利家へ百二十石の御鷹役で仕える。 寛永八年卒。 子の重右衛門義昌が御鷹役を相続して利次に従い富山へ移る。 九里九兵衛 慶長五年に利長が大聖寺の山口宗永へ降伏するよう使者として派遣されるが断られ戻る。 大聖寺城で戦い、金ケ丸で戦没。 九里正貞 甚左衛門と称し、越前で織田信長に仕える。 府中で利家に仕え、七尾で二百石を知行した。 元和元年に致仕し宥知と号し、寛永十年六月卒。 子の覚右衛門永正は慶長五年に利長より二百石を受け大聖寺で戦い、大坂の陣で負傷し、元和六年千石に到る。 寛永七年に卒。 栗林忠光 前田利政に四百石で仕え、伏見へ移った際も九年間奉公し、その後金沢に戻って清水太右衛門と改める。 子の光則は利常に召されて光高に付いた。 桑山小左衛門 鑓の名手で天正十年に利家から百石で召される。 末森合戦では奥村永福を助けて籠城している。 利長に従い大聖寺で戦い、慶長十三年には江戸で徳川秀忠が鑓術手合を上覧し御盃を頂戴する。 同十八年に卒し、弟の清右衛門が継いで利次と富山へ移る。 桑山良青 十兵衛と称し、岡山城の小早川秀秋に仕えて鉄砲を預かる。 秀秋が慶長七年に二十一歳で卒し、翌年伯耆矢橋城主市橋下総守長勝が利長に紹介し四百石で召された。 大坂の陣に参陣し、夏の陣では五月七日に黒門口で戦い討たれた。 子の八左衛門正岳は慶長十六年に百五十石で利常に仕え、父と大坂の陣に従う。 帰国後に五百五十石となり次郎左衛門と改め、利次に付いて富山へ移る。 寛文十年七月に卒。 小嶋諸司之介 越中に利家・利長が来た際に六百俵で仕え、六郎左衛門と改める。 慶長八年二月金沢で卒。 子の八兵衛は利次に付く。 小塚藤右衛門 愛知郡小塚村の出身で父は荒子以来利家に仕えている仁左衛門 ~慶長十四年。 弘治頃利家に仕え、元亀元年近江小谷合戦や天正元年刀根山合戦に従い、同三年府中で二百石 二百五十石とも を知行する。 能登へ移り三千七百石、同十一年四月柳ヶ瀬で利家が退却するのを守り戦没する。 六右衛門秀正・権右衛門・半右衛門は弟で、藤右衛門の跡は権右衛門が継ぎ、鳥越・末森・巌石城・八王子城・大聖寺等の合戦で活躍し、九千石に到る。 越中泊城を守り、慶長七年大聖寺城に移るため金沢へ帰ったが病没する。 秀正は尾張で利家に従って安勝に属していたが、弟病没のため跡を継ぎ、利長と高岡へ移る。 大坂冬の陣では利常と出陣し、夏の陣では金沢城代を務めた。 淡路守に任ぜられ、元和四年七月十一日卒。 半右衛門は五百石で仕えている。 藤右衛門の甥隼人貞友は祖父の貞堯が利長に、父の貞武が利政に仕え、利政の致仕後に牢人して藤右衛門に引き取られ三百石。 なお別伝がある。 権右衛門は権太夫ともいい、利家に仕え九千石であったが卒し、子の権太夫は幼少のため十五歳になるまで権太夫の弟八右衛門に預けられることになるが、利長はその前に三百石を与える。 だが早世してしまい、近藤甲斐の次男が権太夫として継承した。 宮崎城を権太夫が守備したとの伝もある。 後藤清重 父は市右衛門、右兵衛清永、兵庫頭清定とも記され、越後の白銀師であって寛永五年卒。 利長より高岡に召され、後に金沢へ移って寛文四年二月卒。 後藤又助 文禄元年に八百石で利家の足軽頭となり、慶長四年二百石、同五年に二百石を加えて千二百石に到る。 大聖寺や大坂の陣で活動し、元和二年に卒。 後藤杢左衛門 播磨三木の出。 杢兵衛や彦八とも記され、大坂の陣で豊臣方として奮戦した後藤又兵衛基次の母違いの弟と伝わる。 加藤清正の石垣普請を学ぶ。 元和頃に三百石で利常に仕え 母衣役・六十俵とも 、穴生衆を率い石積みの技術を伝えた。 小林重昌 弥六左衛門と称し、大納言を自称する。 砺波郡で遊佐左衛門大夫 太海郷の守護代官か に仕えた後、木舟城の石黒氏に従う。 天正十年二月加賀で佐久間盛政に仕えて二百石、翌年四月の賤ヶ岳合戦で奮戦するが負傷して越中に逃れる。 八月加賀で利家に従い村井長頼に付けられ三百俵を受けた。 同十二年七月佐々成政の動静を知人の僧正林から得て利家に伝え、九月末森城での合戦で活躍、同十三年二月蓮沼、三月鷹巣、六月氷見での戦いに功を挙げ、井波城を守った。 慶長三年七月二十七日に卒。 小堀重政 仁右衛門 備中松山小堀正次の子で遠江守政一の弟 の次男。 慶長三年千石で利長に仕え、寛文六年御先筒頭を務めた。 宝永二年に辞し、正徳二年卒。 小堀新十郎 父は小早川秀秋家臣の平岡石見守で、遠江守政一 遠州 の婿養子である。 利常に二千石で出仕した。 延宝四年卒。 駒井守勝 父は近江出身で図書一益。 民部や中務とも称し豊臣秀次に仕えていたが、慶長六年より利長に従い千石を知行する。 大坂夏の陣では首級一を挙げ千石加増。 入道し宗悟と号し、寛永十二年卒。 近藤長広 善右衛門を称し、府中で利家から二百石を受けた。 天正十二年に末森城の救援で活躍する。 御幸塚城を守り、慶長十年十一月大聖寺城代を務めた。 大和守・一万千石に達し、同十六年卒。 子の甲斐 掃部 も大坂の陣で大聖寺城を守備する。 才所重次 父の治部は島津や浅野に仕えた。 次郎大夫と称し、慶長十五年利長に百五十石で仕えた。 斎藤織部 父の豊左衛門は弓庄城の土肥美作守政繁に仕え、越後にも同道する。 最上義光にも仕えたが内紛で加賀へ移った。 元和元年に織部が召され五百石で仕える。 斎藤兵部 明智光秀に仕え秀吉と戦った斎藤利三の子である。 三百石で利長に従い、大坂夏の陣では三ノ丸塀下で首級一を挙げる。 母方が横山一族であったため横山を名乗り如雲と号す。 寛永十一年に卒。 嫡子の武右衛門は横山長知に仕え、次子の主馬好之は利常に仕え三百石を受ける。 斎藤宗忠 刑部を称し朝倉家臣として堀江本庄の大嶽城主であり、堀江中務とも名乗っていた。 滅亡後に九百石で利家に従い、末森合戦で活躍し、剃髪して夕雲と号した。 慶長十六年に卒。 斎藤基次 忠左衛門や次兵衛と称し、府中で利家に仕え二百石となる。 慶長十五年卒。 斉藤盛重 祖は加賀を支配した富樫政親の一族で越前斉東に居していた。 長享二年に石川郡高尾城で政親が一向一揆勢に攻められ自害すると、所口に逃れて郷士となる。 彦八郎盛豊の子が小八郎盛重であり、利常に仕えて大坂の陣で御先備として真田出丸で戦う。 斎藤弥兵衛 利長に三百五十石で仕え、次男の宗八は百石で利次と富山へ移った。 佐久間半右衛門 佐久間信盛の次男。 追放後に母が前田長定 信盛長男信栄の守る蟹江城を滝川一益に明け渡すが家康の力を借りて回復され自刃 の姉であることから、前田長種を頼って来る。 利長に六百石で仕え、後には千二百石となる。 桜勘助 佐々成政に仕え末森でも戦うが、転封で利長に仕えた。 伏見邸の書院で昼寝していたのを見つかり利長が北村八兵衛に命じて斬らせたという。 桜井新左衛門 荒子で利家に仕えている。 子の九介は百五十石であり、慶長八年十月に二百石へ加増された。 その子九右衛門は六百石にまでなるが致仕し、数年後に帰参するが病没。 佐々流長 父は佐々一義である。 加賀守一義は徳川秀忠の室であった小姫 織田信雄の娘で天正十八年の信雄改易で離縁 の再婚先で、越前高浜に園松寺を開く。 嫡男が伊左衛門流長で、元和元年十五歳で利常に五百石で仕える。 大坂の陣で活躍し金子二枚を拝領した。 利次に付いて富山に移り、万治二年三月に卒。 篠島宗永 左兵衛と称し、越前大野郡の出身。 朝倉義景に仕え五百貫であったが、滅亡後に利家に従い、津幡城の前田秀次に百五十石で属す。 子の清了も利家に七十石で仕え、木舟城の秀次に三百石で属す。 地震で倒壊後に今石動城の利秀に属し、利長から召し返されて六百石、その後三千石にまで石高を増やした。 慶長十六年に致仕し三百石の養老扶持を受け、元和元年十月に卒。 その子清政と一政も大坂夏の陣で首級を挙げる。 佐藤時信 忠兵衛を称し、慶長七年千石で利長に仕えた。 利常の代で子の権佐に六百石を分与し、大坂の陣で三百石を加増、戦功を評価され感状を受けさらに三百石を加えて千石に到り、元和八年卒。 佐分次郎右衛門 利家に三百石で仕え、大聖寺の合戦で戦没する。 長子の儀兵衛は大聖寺へ赴き千石、次子喜左衛門は前田利政に仕え京に移る。 沢庄兵衛 少兵衛 伊賀常在院に関わる服部一族。 二百石で仕え、大坂夏の陣では黒門辺りで重傷を負い、五月十七日卒。 沢崎藤蔵 初め藤八と称し、利家の小姓であった。 三百石を受けるが、八王子の合戦で子の作蔵とともに戦没する。 沢田長政 三賀野次左衛門と称し、伊勢の稲葉道通 稲葉重道四男、牧村利貞の弟 に仕えていた。 道通卒後の慶長八年に利長へ二百石で仕え、苗字を沢田と改めて、氷見を任される。 同十九年五百石を加増され御使番になり、大坂夏の陣では町口に功を挙げる。 元和二年千石加増の上御持筒足軽頭に転じ、寛永八年四千石 うち与力知千二百石 に到る。 品川雅直 左門を称し、京の白川伯雅喬王の次子高倉大納言の三男である。 利常に三千石で仕えた。 篠原長重 通称は弥助で、芳春院の従弟にあたり利家に七百石で仕えた。 末森城の合戦では魚住隼人と金沢城を守る。 養子の一孝 幼名が虎で後に勘六 は尾張出身で十六歳の時に府中で利家の近侍百三十石となる。 柳ヶ瀬や末森で活躍し、天正十八年の小田原攻めで負傷する。 翌年六月に従五位下・肥前守、利長が肥前守に任ぜられたため出羽守に転じる。 文禄四年一万七百石、同七年に千三百石を加増、大坂の陣で一万五千六百五十石に到り、人持組頭に就任した。 元和二年七月二十二日に五十六歳で卒。 同じく養子の長次 彦四郎、後に織部 は九歳で利家に百石で近侍し、後に利長から五百石を加増される。 大坂の陣に従軍し、特に夏の陣で奮戦する 功を巡って野村重政と争ったとも。 一孝の遺知から二千四百石を加えられ、利家三十三回忌法事で奉行を務めるが、同僚石野讃岐守 大蓮寺に帰依した氏次か と争い、河北郡田ノ島に配流になったが、紀伊徳川頼宣の招きを断り三か月後に復帰し、寛永八年十一月六千石になり、慶安二年に卒。 渋谷猪右衛門 父の源左衛門は尾張徳川家臣で、慶長十五年の名古屋城普請に関わるが、その時に利常へ猪右衛門が二百石で仕えた。 利次に付き富山へ移る。 島田与兵衛 利長に二百石で仕え、慶長十八年に卒。 子の勘右衛門は大坂夏の陣に二ノ丸と三ノ丸の間で首級一を挙げ五百石。 新保右衛門 神保豊前守氏重の三男で、兄は氏張である。 越中金山谷城を守備していたが、本能寺の変で流浪し、上杉景勝を頼り、転封で最上義光に仕えたが、元和三年に内紛のため出国し利常へ三百石で仕えて御持筒足軽五十人を預かるが、同年に卒。 杉江丹後 利家に府中で仕え八千石を知行する。 子の兵助は大聖寺での合戦で首級一を挙げ、大坂冬の陣でも鉄砲で奮戦、千三百石を知行し寛永六年に卒。 杉野善兵衛 守山で利長に仕える。 子の善三郎は四百石を知行し、大坂夏の陣では黒門下の火薬長持に座っていたところ櫓内からの発砲で発火し爆発、大火傷を負い五月十六日に卒。 杉村高龍 清兵衛と称し、天正十一年利家に百五十石の馬廻として従い、寛永三年五月に卒。 弟の助左衛門は二百石で利家に仕え、富田直政に属して大聖寺での合戦で六十石を加増され、大坂の陣後は正式に家臣となる。 高龍の子高義は利次と富山へ移った。 関屋政春 父の佐左衛門は美濃出身で織田家臣。 新兵衛と称し、利常に五百石で仕える。 「関屋政春覚書」で知られ、甥の有沢永貞に甲州流軍学を伝授した。 千秋範昌 越前の出で父は山城守。 府中で利家に仕え八千五百六十俵。 主殿助を称す。 末森城では奥村永福とともに籠城戦を戦う。 天正十九年に卒。 子の彦兵衛から五百石となる。 弟の喜兵衛も百五十石で仕えた 石高には別伝有。 千福義春 斯波氏の末で越前丹生郡千福村に住む。 祖父は足利式部大輔と称し、父は千福遠江守を名乗った。 長左衛門と称し、天正十二年に利長へ千五百石で仕える。 一度致仕したが、慶長十八年に帰参し五百石を知行した。 多賀秀種 出雲守、鷗庵と号す。 父は斎藤道三や織田信長に仕えた堀秀重、兄は堀秀政である。 近江高島郡の多賀信濃守貞能に養子へ出たが、明智光秀に味方したとして改易になり、兄の下で佐和山城を守る。 その後は豊臣秀長や秀吉に仕え、大和神楽岡で二万石を領す。 関が原では西軍に与したため、甥の堀秀治に匿われ、慶長十五年に堀家改易で牢人する。 大坂の陣に際して利常の下に参じ、六千石を知行したが、翌年十一月に卒。 高沢猪右衛門 徳山五兵衛に属していたが、山崎長徳に従う。 利家が金沢へ入る際に湊川と手取川が満水であったのを、前波吉右衛門とともに先導した話や、十八歳から加賀や越中魚津・小出・弓庄での奮戦、小田原での松井田城攻めや八王子城攻めでの働き、等が家伝としてある。 だが山崎家臣としての扱いに不満であり、越前の福井孝正のもとに出奔したが、慶長十七年の騒動で改易、牢人となった。 横山長知が府中に来た時に会って三百石で仕えることにする。 大坂夏の陣で図出丸に乗り込むが、広庭で討たれてしまった。 長子平右衛門は横山家老、次男牛之助 後に平十郎 は利常に召され四百五十石、三男忠進は利次と富山へ赴く。 高田伝助 織田信雄や豊臣秀吉・秀次に仕え、慶長元年に千石で利長へ仕えた。 いったん致仕し、同十年に帰参して五百石余を受ける。 元和四年隠居、寛永五年に卒。 高畠定吉 父は孫十郎吉光で尾張出身。 幼名孫十郎、後に織部を称す。 幼い頃より利家に仕え、利家が家督を相続すると二百石、越前で六百石 八百石とも を加増、利家の妹を娶り、天正九年前田安勝と七尾城を守る。 同十年温井景隆・三宅長盛を芝峠に破り、石動山の攻略に活躍する。 同十一年石川郡剣城を守り一万二千石、同十二年七尾に移り、九月に袋井隼人の荒山城を落とす。 同十四年に一時越中宮崎城に入ったとも記される。 文禄三年従五位下・石見守、八幡城 剣城と同じ に移り一万七千石。 慶長五年に金沢城で利長の凱旋を待ち、八幡城に戻り剃髪する。 無心と号し、同七年に致仕し上京、翌年正月三日六十八歳で卒。 慶長六年に青木信照の子左門 五郎兵衛 を養子にし定方と名乗らせる。 定方は大坂夏の陣で首級二つを挙げ、馬廻頭を務めた。 弟の定詮 通称は茂助、~元和五年 は利家に千石で仕え 後に兄の遺知から千石を分領 し、その子定良・定次・定治とも大坂夏の陣で首級を挙げている。 弟の定量 通称は孫七郎・木工、初め貞政、~慶長十六年 も利家に千石で仕え、慶長三年芳春院を守り伏見、二年後江戸へ従った。 その子定高は三百石で利長に仕え、徳川家臣の大島一平が逃亡し名を変えて利長のもとへ伺候していたのを討ったと伝う。 芳春院に従い、大坂の夏の陣で首級を挙げた。 弟の定良 通称は九蔵・平右衛門、~慶長六年 も九歳で利家に千石で仕え、天正十二年に村井長頼のもとに越中朝日山城を守る。 兄たちと木舟城を攻め、八王子や大聖寺の合戦にも参陣した。 五千石を知行し、慶長五年に芳春院に従う。 高山右近 諱は友祥・長房・重友など、千利休門下茶道の号は南坊、彦五郎と称し、洗礼名はジュスト。 祖は摂津三島郡高山庄の出身で、父の友照は大和宇陀郡沢城で三好長慶や松永久秀に仕える。 天文二十一年に生まれ、父が奈良でキリスト教に感銘して洗礼を受けたため、十二歳でキリシタンになる。 摂津が混乱する中にあり足利義昭の直臣高槻城の和田惟政に仕えるが、元亀二年池田勝正に惟政が討たれてしまう。 勝正も家臣の荒木村重により圧せられ、村重は信長に属す。 和田家中の分裂で高山父子は村重に属す。 天正六年に村重が信長に反旗を翻すと、中川清秀とともに信長に付き、高槻城主として四万石に到った。 天正十年の本能寺の変では秀吉の下に入り、同十三年に播磨明石で船上城主六万石を領す。 だがバテレン追放により領地を捨て小西行長の庇護下で暮らし、同十六年秋に利家の所で軟禁されることとなる。 羽咋郡志賀町辺り千八百石が付与される。 七尾の日蓮宗本行寺に拠点を置きキリシタンが隠れ、小田原合戦では十字の旗を翻し戦った。 慶長六年頃に金沢の紺屋坂側で耶蘇寺を建立し、甚右衛門坂にはキリシタンが住んだ。 これは利長の指示によるものであり、茶の湯の相手でもあった。 家康から利長が謀反を疑われた際には、横山長知とともに弁明に赴いている。 長知とは嫡男康玄と右近の娘が婚儀を挙げた関係にある。 金沢城下の惣構堀工事では篠原一孝の指揮下に、利家が足利将軍家に仕えていた大工・鍛冶を受け継いだ穴生 穴太 衆 穴生源助・小川長右衛門等 を用いて、三キロほどの普請を二十七日間で完成させたという。 内藤忠俊や宇喜多休閑 秀家の従弟 、品川右兵衛、柴山権兵衛等のキリシタンも利長のもとに集まった。 しかし慶長十八年十二月十二日に以心崇伝の手になる伴天連追放令が金沢に届き、十五日には京都所司代板倉勝重に内藤忠俊とともに引き渡す指示がある。 同十九年正月十七日に篠原一孝の警固で家族と京へ向かい、坂本から長崎へ船で進む。 十月六日に内藤忠俊とルソンへ向けて出帆、十一月十一日にマニラ総督ファン・デ・シルバの出迎えで到着したが、翌年正月八日に六十四歳で卒。 なお、宇喜多休閑や同太郎右衛門・奥村外記・品川九郎右衛門・柴山権兵衛は青森津軽に流された。 横山長玄に嫁いだ娘は胤長を産み、右近の知行地であった二所宮に預けられる。 また右近の長男 弟とも 十次郎夫婦は追放後に病没し、遺児五人も追放されるが、そのうちの一人が内藤忠俊の長男采女好次と密かに戻り右近の知行地内の末吉に医者高山節庵として、好次は忠俊の知行していた志雄に暮らしたと伝わる。 福井や大分にも右近の子孫が住んだという。 瀧川一治 滝川一益の子。 城太郎と称して、天正十年六月十八日十七歳で北条氏直と武蔵倉ケ野で父とともに戦う。 蟹江城合戦の後に牢人、浅野幸長に召されて図書介と称して大坂の陣に従う。 また牢人し、元和三年利常から二千石で招かれ、玄蕃と改め御馬廻組を務めた。 寛文九年三月六日卒。 子の一茂は利次に付き富山へ赴任する。 滝川左門 滝川一益の子で、前田利政に従い六百石。 利政が隠居してからは江沼郡額見村に移り、神明社司になったが、大坂の陣に従い戦没する。 母親に屋敷地三百歩が付与された。 竹田金右衛門 越後の出身で大聖寺での合戦に勝手に参戦し手柄を挙げた。 山田八右衛門や本多政重に付けられ、大坂冬の陣で負傷する。 夏の陣では三百石で横山康玄に付いて負傷しながらも首級一を挙げ、利常から賞された。 隠居して休意と号す。 養子の忠種は大場采女の子で利常に仕え、三千五百三十石に到る。 竹田宮内 伝説が先行している人物である。 新川の升形山城を佐々勢撤収後に守ったとされる。 武田蔵人 権大納言正親町三条実有の子といわれ、利常に千五十石で仕える。 竹田権兵衛 秦姓であり、京の能太夫。 寛永五年二月十日に利常から四百石で招かれた。 田中久左衛門 父の名は葛野佐渡というが苗字を改め利長に百三十石で仕えた。 田辺兵右衛門 父は井関宗兵衛 慶長十年侍帳では高岡御残衆 、利長に仕えて五十石を受け、祖父田辺蔵人の苗字を名乗り三百石に到る。 元禄元年に卒。 谷忠弘 弥左衛門を称し、利家に府中で仕え小姓として務めた。 その間に子の左兵衛が病没し、その子忠政が利次に百二十石で付き、弟七兵衛とともに富山へ移る。 多野村 田名村・種村 三郎四郎 利家に従い多くの合戦で功を挙げ、阿尾や末森でも活躍する。 肖椎寺と号した。 京に致仕して、利長相続後に嫌疑を受けた際には奔走したという。 別の伝えもある。 柴田勝家の軍師であったが、滅亡後に利家が二万石で招く。 しかしこれを断り京の嵯峨に蟄居し琵琶を弾く生活を送っていた。 利家はどうしても家臣に加えたいため、利長室の永姫が所持していた白雲の琵琶を進呈し、五千石で招致に成功する。 ただこの後三郎四郎の若党が横山長知と争うことがあり、抜刀した責任を取って致仕してしまい、浅野家に仕えた。 玉井頼母 近江の出で、慶長五年に四千石で利長に仕えて足軽頭を務める。 元和元年に卒。 子の貞直は市正とも称して利常に仕え、大坂夏の陣では三ノ丸町口で首級を挙げた。 利治と大聖寺に移り五千石の家老となる。 寛永十八年に通外祗徹大和尚を招き一庵を設け、これが曹洞宗実相院に発展した。 承応二年に金沢に戻り、万治三年卒。 弟の藤左衛門自代は夏の陣で功を挙げ千四百石を知行し、御使番や足軽頭を務めた。 正保二年卒。 田丸兵庫 父は蒲生氏郷に仕えて田丸城や三春城主であった田丸中務直昌 妻は氏郷の姉か妹 というが、別の記では伊勢の北畠一族であり、度会郡田丸城主で一万五千貫田丸中将具忠の子中将大輔直昌が北畠具教の娘を妻にし、天正十八年に父子で奥州田村に移り五万五百石を領したという。 その長男の兵庫直茂が五百二十七石で利長に仕え、慶長十年には大小姓衆に属す。 大坂の陣に参陣し、寛永十六年の大聖寺分封で前田利治に従い移る。 団七兵衛 丹羽長重の家臣であったが改易後に流浪し、慶長八年利長に仕えて七百石、利常には千石で仕えた。 兄の氏家内蔵允も利長に近侍していた。 長連龍 鎌倉幕府の時代に遠江長村に生まれた長谷部 長 信連が能登に地頭として赴任し、やがて室町幕府の時代に能登守護畠山家臣となる。 連龍は天文十五年八月十五日長続連の三男として生まれ、九郎左衛門と称す。 臨済宗孝恩寺宗先になったが、天正五年に七尾城が上杉勢に包囲されたため、織田信長に救援を要請しに行く。 この間に遊佐続光・温井景隆により城内で長一族が討たれ、還俗して好連を名乗る。 自力で穴水城を奪取し、七尾城に入った上杉方の鰺坂長実や織田方の神保氏張と提携しながら転戦し、七尾城が遊佐・温井勢により占領されるや柴田勝家に働きかけ、利家や佐久間盛政とともに七尾城を攻め遊佐続光を討つ。 土肥親真と利家の与力になり、同八年に連龍と改め、同十年魚津城攻囲に参加する。 本能寺の変以降は利家と血判起請文を交わして鹿島郡三万千石を支配し、柳ヶ瀬や末森等で功を挙げた。 慶長十一年に致仕したが、嫡男好連の早世で復帰し大坂の陣に参陣、元和五年二月三日七十四歳で卒。 槻尾甚助 一向一揆勢の西野隼人の子で寺島盛徳とは兄弟。 神保長職家中の小島一族の養子となるが、神保氏張に仕えて槻尾の名を貰う。 佐々成政の下で戦うが、後に利長に従い二千石を知行した。 津田右京 父の津田大炊は豊臣秀頼に仕えていた。 外孫が堀対馬守と称し、その子が津田右京で利常に七百石で仕えた。 津田重久 祖父は備後出身で、細川澄元に仕えた津田佐渡守、父は新太夫と称して近江津田に住んだ。 重久は慶長元年に伏見で利家のもと千五百石 五千五百石とも で仕え、遠江入道と称す。 大聖寺城番を務め、金沢へ移り寛永十一年卒。 五右衛門重盛が利次に付き富山へ赴任した。 津田長意 父は織田一門の津田盛月 従五位下・隼人正。 父は信長に仕えていたが、柴田勝家と領地で争い追放され、秀吉に匿われて後に近江で四万石を領し、徳川家康と朝日姫の縁談をまとめている。 長意は剃髪名であり、もとは諱を信秋や信任、与左衛門や左近将監を称した。 下野守。 天正元年秀吉の黄母衣として仕え、文禄二年に相続してから山城三牧城三万五千石を領すものの、山科で千人斬りをしたと訴えられ解任、弟の信成 高勝 が一万三千石に減封され継承した。 長意が剃髪したのはこの時であり、京の利家が預かり金沢へ同道させ、七尾に住まわせた。 利長は金沢へ移し 蓄髪させたか 、与力知を含めて千五百石を給す。 その後御持筒三十挺を預けた。 野村左馬允 寛永四年侍帳 の姉を妻にし、浅野将監に娘を嫁がせる。 利常の代に改めて剃髪し長意と改めて知行の半分と御持筒の役を将監に譲り、御咄之者として仕えた。 寛永十四年三月五日に卒。 嫡男に掃部がいたが、次男の主計は京から利長の供をして近江坂本に着いた時に兄が没したことを聞いて金沢へ戻り五百石を受け、兵部と改め御馬廻となる 次郎左衛門千連。 妻は叔父長門守高勝の娘。 大坂の陣で二百石を加増され御小姓番頭になり、寛永八年母衣御預御使番に任ぜられ、同十三年に卒。 三男兵部は甚右衛門忠政と改め利次に従い富山へ赴任し御馬廻組頭となる。 津田正勝 義忠・清次とも名乗る。 尾張守護斯波義近の子 否定説もあり で美濃墨俣に暮らすが、兄の重政と織田信長の勢力下に入り、天正初年には滝川一益に属し、やがて豊臣秀次に従い、従五位下・刑部少輔に任ぜられ。 六千五百石を知行した。 その後に越前の長谷川秀一や尾張の徳川忠吉に属し、慶長十四年に六十三歳で利長に仕えた。 二千石を知行し高岡に移る。 利常の代で千石を加増され、大坂冬の陣では金沢を守り、夏の陣では富山を守った。 風流な文化人でもあり、小鼓は幸五郎次郎の門下である。 元和三年七十一歳で卒。 恒川長武 山森久次郎と名乗っていたが改め、権左衛門、後に監物を称す。 荒子で利家に仕え、七百石・御使番に到る。 西仁と号し、寛永五年十一月二十一日卒。 寺島盛徳 牛介と称す。 父は一向一揆首領で神保氏張に従った西野隼人 剃髪し宗慶。 神保長職に仕え能登や越中各地に勢力を有した職定の養子となる。 神保家中の内紛で上杉方に従い、富崎城や大道城等で織田方への抵抗を続け、本能寺の変で魚津城から撤退する織田方を追撃したとも伝わる。 佐々成政に五千俵で従い、末森城の包囲戦で奮戦するが、その後は利家や利長に千五百石で仕えた。 子の牛之助は四百五十石である。 寺西直次 美濃本巣郡本田城主。 秀吉に仕え伊勢・近江・越前に一万十五石、従五位下・備中守、秀頼にも仕えたが、関が原合戦の前哨である会津攻めに参加するものの、家康に断わり氏家行広と桑名城に籠った。 九月に開城し剃髪して意閑と号す。 翌年利長から召されて千五百石を受けた。 七尾に住み、慶安二年九月二十日卒。 寺西秀則 千葉一族で父は石見守秀之。 寺西村 荒子とも の生まれで治兵衛と称した。 野洲川や姉川で戦い、近江石部城主として織田信長に仕え佐久間信盛に従う。 天正三年長篠で重創、石山本願寺との戦いで高屋城を攻め、信盛に属して八王子城を守った。 だが信盛が追放されると連座し、佐渡へ落ちる途中に能登で利家と会い、本能寺以後に五千俵の家臣となった。 妻は前田右馬助の娘という。 柳ヶ瀬で活躍し二千俵を加えられ前田秀次と津幡城に入る。 末森での合戦で功を挙げ、秀吉の越中入りでは松任城代を務めた。 茶にも長け若狭等で五千石を得る。 秀澄に譲って養老扶持千石を受けた。 慶長四年前田利長に謀反の企てありという讒言に横山長知とともに反論し回避する。 同十六年に卒。 弟九兵衛松秀は利家の妹を娶る。 土肥親真 平氏の末裔で但馬守を称す。 能登の末森城に居し、天正四年十月上杉謙信の能登入りで和を結ぶ。 同七年温井景隆が上杉方の鰺坂長実を追って七尾城を奪うと温井方に付き、同年長連龍が羽咋郡敷浪に入ったら一転して協力を申し出たが拒まれ、人質を出して許された。 やがて前田利家に仕え、まつの姪が夫の浅野左近を喪うと娶った。 妻は末森殿と呼ばれ家次 左京・四郎左衛門、~万治元年 を産む。 家次は義兄の青山長正に可愛がられ、卒後に吉次へ六百石を分割した。 同十一年親真は柳ヶ瀬に同道し戦没。 甥の茂次は奥村永福の与力として、天正十二年の佐々成政による末森城攻囲に外郭で対陣し、戦没している。 遠田重次 父は右衛門。 勘右衛門を称し、利家に二百五十石で仕えた。 栂大学 松任城に利長がいた時に二千石を給され、太田但馬の妹を妻にする。 しかし但馬の成敗で牢人し、播磨の池田家へ仕えた。 数年後に利長から申し入れがあり、二千五百石で帰参する。 慶長十九年に高岡の利長が薨去し金沢へ移り利常に仕え、鉄砲頭を務めた。 嫡男四郎右衛門は二千石で継ぎ、次男の与兵衛は五百石で利次に付き富山で馬廻番頭を務める。 栂野吉政 虎之助と称し、天正二十年に前田安勝から覚兵衛の称を与えられる。 九歳で利家に出仕し、十一歳で安勝に仕え、天正十七年二百三十俵、文禄二年に百俵を加増され、寛永頃には二百石であった。 利次に付き富山へ赴任、子の覚兵衛当則は正保二年に相続して郡奉行を務めた。 徳山則秀 五兵衛を称す。 土岐氏の分かれで、斎藤氏に属したが、父の少 庄 左衛門又勝 貞孝 は、織田信長に仕えて柴田勝家の与力となり、子の則秀は、天正四年加賀平定に当たっていた大聖寺城の戸次 簗瀬 広正が苦戦したため、替わって佐久間盛政が天神山を落として御幸塚城に迫れば、その先鋒として一揆方の林七助や内山四郎左衛門等の調略にあたり成功する。 同八年に勝家による一向一揆討伐以降、御幸塚城は又勝が守る。 同年に温井景隆・三宅長盛が降参したので、監察使として能登へ赴任した。 同九年四万石松任城に入る。 勝家と秀吉の争いが起き、同十一年秀吉が近江入りすると、四月二十日に盛政の先鋒として中川清秀の大岩砦を落とすが、翌日に敗戦が決定的になり、二十二日に府中で降伏、丹羽長秀に仕えるが、長重の代に解雇され利家に従った。 末森城の戦いで功があったが、徳川家康とも接近し、慶長四年閏三月利家薨去直後に出奔し、家康の下に逃れて五千石の旗本となった。 子の直政は寛永十年十一月に幕府巡見使として金沢に来ている。 富田景政 与六郎や治部左衛門を称し、永禄初年に荒子で利家に仕えたとも、朝倉家臣であったが滅亡後利家に仕えたとも伝わる。 中条流の達人冨田勢源は兄であり、眼病のため家督を譲られたという。 天正十年魚津の合戦で四千石、七尾城を守備していたが、柳ヶ瀬で子の景勝が戦没し、婿養子重政に譲った。 文禄二年に七十歳で卒。 重政 与六郎・六左衛門 の実父は山崎弥三兵衛景邦 元朝倉家臣。 天正三年に府中で利家に仕え、同十二年に婿養子、慶長元年に下野守、同六年越後守・人持組一万三千六百七十石に到る。 同十八年に隠居するが、大坂の陣に参陣した。 徳川秀忠に剣術について言上し、利常には無刀取を披露する等、「名人越後」と呼ばれる。 寛永二年に六十二歳で卒。 嫡男重家は宇喜多秀家の娘を妻にするが没し、次男の重康が相続して、やはり剣の名手で「中風越後」と呼ばれる。 富田重則 初め勝八、後に太左衛門と称し、尾張の出とも言われるが、府中で利家に従っていることから、朝倉旧臣であろうか。 前田秀次や利秀に付き、小田原合戦で四百俵となる。 名護屋に従った際には利秀が病で帰国したため利家に付いた。 利常と大坂の陣に従軍し、子の弥右衛門重之と利次に従い富山へ移る。 慶安四年に卒。 富田庄左衛門 父は弥六郎長秀で、出雲尼子氏の分流という。 庄左衛門は朝倉義景に仕えるが、滅亡後に横山長知に属して百五十石。 慶長十四年に卒。 子の治太夫は利常に仕える。 富田直政 兄の半田半兵衛は八王子の合戦で戦没している。 利家に仕え、命で富田六右衛門 利家に仕えて後継の内蔵允が八百石 の養子になり、兄の分を含め七千百三十石を知行する。 文禄四年に下総守。 大聖寺城の攻略に功を挙げた。 寛永十六年利次に従い富山へ赴任し、八千百三十石の国家老となる。 富田宗清 父の新左衛門道信は朝倉家臣であったが、滅亡後に牢人した。 三右衛門宗清は府中で利家に仕え、利長に従って守山城下の横町に移る。 利長が富山へ移ると同道した。 子の三右衛門可教は、慶長十四年高岡城に供をした後に町人となり、平田屋・横町屋の屋号を称した。 富田正俊 弥五作と称し、佐久間盛政に仕えて松任城に詰める。

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