川 の 守神。 墨田川七福神巡りとは?1月1日~1月7日までの間に参拝しにいこう!

宮古島を旅行するなら知っておきたい基礎知識

川 の 守神

坂浜・若葉台・長峰の歴史地理. 上谷戸親水公園の水車小屋 坂浜・若葉台・長峰 坂浜(さかはま)は多摩川の支流である三沢川が地域内の南西から北東へと流れ、そのまた支流である上谷戸川や清水谷川、薄葉谷川などの流域が中心となった地域である。 現在の稲城市を成した旧村々の中では大丸と並ぶ程の広面積の村であるが、その面積中3分の2程度は傾斜のある丘陵地となっている。 隣村の平尾と同様、中世頃までは「武州都築郡師岡庄」に属していたが、江戸時代以降は「武州多摩郡」へと改編入されたという歴史を持っている。 当地域は多摩ニュータウンの最東端として開発が進められたため、山が削平され、谷戸が埋められているなどして、残念ながら旧地形が見られない場所が多い。 、1995年に長峰地区が、1999年には若葉台地区がそれぞれ坂浜から分立し、現在の地域形態を成すに至った。 天満神社(てんまんじんじゃ) 御祭神:菅原道真公・天照大神・日本武尊・建御名方命・倉稲魂命。 御神体は束帯の座像。 創建年代は不詳。 元禄七年(1694年)に当時の地頭天野伝左衛門重政が社殿を造営したと伝わる。 大正十二年の関東大震災にて社殿が倒壊、その大正十五年に社殿を造営。 その際に本殿は上谷に鎮座していた神明社を現地に曳き、同時に周辺に鎮座していた、 「東部上野社」「於部屋神明社」「堂ヶ谷諏訪社」「根方川上神社」、末社に「戸隠神社」、 すぐ近くにあった稲荷社、そして曳いてきた「上谷神明社」を合祀している、坂浜を統合した神社。 合祀記念碑もあるが、何よりも狛犬が6体と多いのが合祀を偲ばせる象徴かもしれない。 高勝寺(こうしょうじ) 岩船山大智院高勝寺。 真言宗豊山派。 応安元年(1368年)鎮海法師開基。 京都仁和寺の末として皇室から菊紋の使用を許され、 往時は19もの末寺・門徒寺を持った大本寺として由緒ある寺である。 本尊は胎蔵界大日如来像。 地蔵堂には弘法大師作の日本三体霊仏・岩船地蔵菩薩像 (他は栃木県岩船と新潟に各一体ずつ)がある。 境内にあるカヤの木は東京都の天然記念物だが、現在は補強され養生中の様子。 『稲城の昔ばなし改訂版』に『坂浜の一番鶏(高勝寺の観音様)』として逸話が掲載されている。 宝蔵院(ほうぞういん) 権現山宝蔵院。 真言宗豊山派高勝寺の末。 本尊は不動明王。 開山は印栄(永禄十年・1567年没)と云われるが、元禄十年(1697年)に領主の富永織部創建とも。 当寺には永和元年(1375年)の板碑があるので、もう少し年代を遡ることもできるのかもしれない。 玉川焼(たまがわやき) 高勝寺通りの急坂を登り切る手前、黒い立派な門のお宅が榎本家。 分倍河原の合戦(元弘三年(1333年))で新田義貞が国分寺を焼き払った際に、 榎本家の先祖が、国分寺瓦に刻印されていた丸の印(大丸瓦窯産という意味)を見た。 それをきっかけに大丸瓦谷戸の粘土を使用して焼き物を始めたという言い伝えがある。 玉川焼きの由来とおり、その作品達には玉印が付いているということだ。 現在は榎本家の門脇塀に玉川焼きの説明板が設置されている。 光仙婆さんの祠(こうせんばあさんのほこら) 稲城第二中学校通りから小田良通りに入る辻にあるのが、光仙大菩薩の祠。 小田良の大塚氏が今でも手厚く祀られているとのこと。 『稲城の昔ばなし改訂版』に『光仙婆さん』として逸話が掲載されている。 丸石稲荷(まるいしいなり) 小田良通りにある中山家の屋敷庭に『丸石稲荷』とも『夜泣き石』とも呼ばれる石がある。 『稲城の昔ばなし改訂版』に『丸石稲荷』として逸話が掲載されている。 今回は中山氏ご夫人のご厚意により庭内の撮影許可をいただきました。 とうがらし稲荷(とうがらしいなり) 上記の光仙婆さんの祠から小田良通りを下り始めるとすぐ右手の畑の奥に鳥居が見える。 『とうがらし稲荷』と呼ばれ、大塚氏の屋敷稲荷という。 別名『イボ取り稲荷』とも。 『稲城の昔ばなし改訂版』に『とうがらし稲荷』として逸話が掲載されている。 京王相模原線遺跡(けいおうさがみはらせんいせき) 京王線工事の際に発見された遺跡。 縄文時代の住居跡、勝坂式土器、横穴墓などが発見された。 その他にも中世の石斧、陶器、古銭なども出土しているという。 若葉台総合高校(旧稲城高校)傍のガードレール付近。 上谷戸親水公園(かさやとしんすいこうえん) 上谷川沿いに遊歩道が設置され、上流部には『上谷戸緑地体験学習館』や水車も建てられている。 平成19年には国土交通大臣から『てづくり郷土賞』を受賞した、里山自然を利用した秀逸な公園である。 近辺には古民家も残っており、古き良き日本を感じさせてくれる。 上記地図の地名と照らし合わせてご利用ください。 シサリギ(当て字なし) 鶴川街道じから沢川を渡った反対側の京王相模原線ガード近辺。 薄葉谷戸の入口部にあたる。 水田があり、奥は畑になっている。 ガードくぐってすぐ右には小さいが梨畑もあった。 シサリギとは「スサリ(退り)」の訛りで、水が退流(逆流)し浸かる場所という意味か。 現在のシサリギの様子。 ガードをくぐった先は新築住宅工事が行われていた。 向かって左からは百村地区となる。 薄葉谷(うすばやと) 臼場谷戸とも。 三沢川に流れる小川に沿った細長い谷地。 「ウス・オシ」は山の角や、入り込んだという意味。 「葉」は「場」。 山角の入り込んだ谷湿地ということ。 現在でも谷戸田が営まれており、谷に沿った細道が奥へと続く(左・中央)。 松尾台より谷全景を撮影(右)。 沖の谷(おきのやと)、濁活沢(どっかつざわ) 薄葉谷の奥(オキ)の谷という意味。 現在の駒沢学園裏手あたりか。 濁活沢はその手前、駒沢学園横あたりか。 語意不明だが、濁った沢だったのだろうか。 百村の清田谷戸側より、濁活沢方面を撮影。 中央奥に見えるのは駒沢学園の校舎の一部。 忍ヶ久保(おしがくぼ) 宮台の北側下、三沢川に沿った窪地。 「オシ」は山の角。 山角の窪地という意味。 三沢川対岸、鶴川街道より忍ヶ久保近辺を撮影。 宮ノ台(みやのだい) 『新編武蔵国風土記稿』に上野社があったと記載されている場所。 上野神社(文化七年創建、祭神は日本武尊)は、大正十五年に天満神社に合祀された。 宮(神社)のあった台地という意味。 シサリギより宮ノ台を眺める(左)。 「宮の台」バス停から眺める(右)。 伊勢ノ森(いせのもり) 宮台北側の山腹。 同地に伊勢信仰関連の跡が見られないことから、 伊勢は当て字で、伊勢=イシ、森=盛るで「石の山」という意味か。 忍ヶ久保近辺から伊勢ノ森(宮台)を見上げて撮影。 宮台(みやだい) 宮ノ台のある台地の総称だろうか。 同様に、宮(上野神社)のあった台地という意味。 宮台、伊勢ノ森、愛宕森にまたがる駒沢女子学園を長峰より撮影。 清水谷(シミズヤト) 文字通り、清水の湧き出る谷という意味。 現在の駒沢女子学園南側を東南へよみうりCC方面に登る谷。 以前は水田があったらしい跡があるが、今では湿地帯となっていた。 奥は清水谷戸緑地に指定されている。 駒沢学園下の清水谷入り口と谷内部の様子。 水量ある清水谷川には滝(落差2mくらい)も。 水ノ頭(みずのかしら)、大久保(おおくぼ) 清水谷奥の水源地。 「カシラ」はモノの始め、源という意味。 「地史編纂取調簿」では沖ノ谷戸の水源だとされているが、清水谷が正しいらしい。 大久保は大きい窪地という意味。 清水谷最奥部には清水が流れ出す岩の露頭が多い。 水ノ頭へと小川と細道が続く。 愛宕森(あたごもり) 愛宕神社があった森、山という意味。 現在の駒沢学園南側あたりか。 駒沢学園下の道から、愛宕森方面を見る。 馬老尾(ばろお) 清水谷の道を奥に登り切ったとこら辺に畑があったらしい。 バロは荒れ地、尾は峰なので、荒れ地の峰という意味? 馬老尾、宮田、第六天森、川久保、山谷、恋久保は、 すべて東京よみうりカントリークラブの内側にある。 宮田(みやた) 馬老尾と同じく、現在はよみうりCC内になっている。 神社所有の田という意味であろうが、どこの神社かはわからない。 第六天森(だいろくてんもり) 川崎市麻生区向原(細山村)との境。 現在はよみうりCC内部。 第六天とは仏教でいうところの人間界の上にある天上界(一天~六天)の最上界で、 他化自在天とも呼ばれ、欲界の天主大魔王である波旬(はじゅん)の住処。 かの織田信長が自らを第六天魔王と称したことは有名。 第六天信仰にまつわる何かしらの山だったのかもしれない。 同地ではなく、小田良の大塚家裏山にある第六天の祠。 川久保(かわくぼ) 第六天森の南側の窪地。 そのまま川の窪地という意味。 山谷(さんや) 川崎市麻生区向原(細山村)との境のひとつ。 サンヤは山野開墾地、または雑木採集の入会地といった意味。 現在はよみうりCCの内部になっている。 恋久保(おんがくぼ) 山谷の東側、緩やかな窪地。 現在はよみうりCCの内部になっている。 オンは奥の訛り、奥の窪地という意味か。 国分寺市の『恋ヶ窪』も同じ地名由来なのだろうか? 鶴巻(つるまき) 弦巻とも。 鶴川街道の坂浜交差点付近といわれる。 鶴巻バス停もある。 坂浜村当時から、一番の繁華街だった場所。 ツル(水流)は水路のある低地、マキは山や川を取り巻くような形。 山麓を取り巻く半円形の水路のある低地集落という意味か。 近くには「鶴巻駐車場」も。 寺ノ台(てらのだい) 台方(だいかた)や、高勝寺台(こうしょうじだい)とも。 文字通り、寺(高勝寺)のある台地という意味。 寺ノ台に残る竹林、台地へあがる「高勝寺通り」。 清水谷から台地へあがる小道。 内山(うちやま) 高勝寺の東側の低地。 山に囲まれた地という意味か。 内山の現在の様子。 多くの民家が立ち並んでいる。 蟹ヶ谷(かにがやと) 現在の稲城第二小学校と高勝寺の間の谷。 カニはカネの訛りで曲がったという意味、曲がった谷ということか。 読売CC駐車場から蟹ヶ谷を望む。 ここ辺りは「山谷」とも呼ばれたらしい。 江島(えじま) 蟹ヶ谷の奥の湿田と山腹の場所。 エは上方や段丘の意、段丘のある川沿いの耕地という意味か。 江島近辺の現在の様子。 高勝寺通り最上部あたりから。 並松(なみまつ) 稲城第二小学校の坂を下りたあたり。 付近の三叉路には、高勝寺への旧参道であったことが偲ばれる「六地蔵石塔」が。 田ヶ谷(たがやと) 丹後谷戸とも。 この場所は平尾側にも同様の地名が見られる。 そのまま、田のある谷という意味か。 現在はよみうりCC内になっている。 一本松(いっぽんまつ) 小田良向(こだらむこう)とも云う。 これは小田良のムカイ(南)という意味。 昔はこのあたりに目印となるような大きな一本松が生えていたのだろうか。 一本松付近には、やや新しい不動明王像が祀られていた。 土手ノ内(どてのうち) 天満神社南側にある山間の窪地。 土手の内側にある小平地ということ。 この上の台地部分は天満神社があるので『天神台』とも呼称される。 土手ノ内あたりの現在。 降りる手前には真新しい馬頭観世音の石碑があった。 御岳山(みたけさん) 御嶽信仰に纏わる何かしらがあったから付いた名か。 もしくは御(偉大な)岳(山または崖)ということか。 小田良側から見た御岳山方面。 小田良の大塚家裏山にある御嶽神社。 鐙野原(あぶのっぱら) 稲城第二小学校北から京王線の線路あたりの原。 『新編武蔵国風土記稿』には『鐙塚』があったことで起こった地名とある。 この塚は、新田義貞が戦死者を埋めたという説や、武蔵鐙を作った高麗人の墓という説など 諸説あるが、アブ(低湿地)の野原という意味ではないかと「稲城市の地名と旧道」にある。 旧平尾道から見る鐙野原の様子。 左端は第二小学校。 牛沢(ウシザワ)、権助谷(ごんすけやと) 「ウス・オシ」は山の角や、入り込んだという意味。 山角の入り込んだ沢ということ。 権助谷は、その名の通り、権助さんが開墾した谷ということらしい。 牛沢の様子。 今でも多くの緑が生い茂っている。 小田良(こだら) だらだらと曲がった緩やかな湿地の谷という意味らしい。 この谷の上部は古くより大塚氏が居住しており、その墓所には第六天の祠や 中世時代の石碑など遺跡が多く残っているという話だ。 また、この地域は民話の里とも呼ばれ、「夜泣き石」「とうがらし稲荷」「光仙婆さん」など 『稲城の昔話』に収録される多くの逸話が残っている。 大塚牧場や農園など、小田良には古き良き里山の風景が漂う。 民話を活用して岩手県遠野市のような魅力を打ち出せないだろうか。 番場ヶ原(ばんばがはら) バンバ(ババ)は広場や山上の平坦地という意味。 若葉台側から撮影。 山頂部付近が平らな畑になっているのがわかる。 西小田良(にしこだら) 荒井谷戸とも。 現在の小田良谷戸公園(稲城ふれあいの森)あたりの谷。 山間の谷戸で湧水が出ている。 現在は土日祝日しか当公園に入れない。 左は小田良谷戸公園入り口。 右は谷内部を撮影。 三十三枚田(さんじゅうさんまいだ) 西小田良の西側、宝蔵院山との間の1反(991. 7平米)に小さな田が たくさんあったことで付いた名前。 西小田良谷戸の西にある小さな谷。 三沢川との間には水田が残る。 平ヶ岳(ひらがたけ) 平尾地区との境、平尾にも同様の名称(平武)で残っている。 タケは岳で、頂上が平らな山という意味。 山頂部は現在の稲城市立第二中学校。 平ヶ岳が平尾・坂浜学区の中点にあり、平な山頂であったため稲城第二中学校が建設された。 塔向(とうむかい)、宝蔵院山(ほうぞういんやま) 現在の都立若葉台総合高校あたり、平尾・黒川と境を接する地。 トウ(山頂)、ムカイ(川を挟んで南側)なので、三沢川の南の山ということか、 もしくは現在の若葉台にあった塔ノ腰の向い側という意味か。 当地の北部は宝蔵院山と呼ばれ、宝蔵院の寺領であった。 若葉台総合高校(旧稲城高校)を西から撮影(左)。 頂部には畑と小道が広がる(中)。 鶴川街道より遠景(左) 芹沢(せりざわ)、前芹沢(まえせりざわ) セリは端や隅という意味。 坂浜の端っこ(黒川境)の湿地という意味か。 前(マエ)は南という意味。 現在は完全に埋め立てられてしまっている。 若葉台駅の北側道路(左)が前芹沢、三和・ユニディあたり(右)が芹沢か。 行仙谷戸(ぎょうせんやと) ギョウセンは凝煎(水あめ)という意味で、水飴のようにジワジワと水が湧く谷ということか。 芹沢同様、現在は埋め立てられてしまっている。 一説によれば「行政」関係の何かがあったから、「ギョウセイ」が転じたとも。 現在の若葉台ファインストーリアから階段で鶴川街道へ下りていくあたりか。 横峰(よこみね) 芹沢の上に横(東西)に長い峰があったという。 現在このあたりには「若葉台ワルツの杜」というお洒落なマンションが建っている。 四ツ尾沢(よつおざわ) 黒川との境。 四つの細流が流れる沢という意味。 現在の京王電鉄の若葉台車両基地がその場所である。 ちなみに若葉台駅自体は川崎市麻生区黒川であり、 奥の「若葉台ゴルフ練習場」の住所も黒川になっている。 塔ノ腰(とうのこし) トウは尾根や山頂という意味で、コシは麓。 山麓ということである。 牢口(ろうぐち)、南牢口(みなみろうぐち) 坂浜西端部で多摩市連光寺と川崎市麻生区黒川との境の地。 近辺の丘陵からは縄文時代の住居40戸余りが発見されている。 牢口は牢獄という意味か、ロウ(狭い谷)の入り口という意味。 現在、東京都水道局の坂浜貯水槽やコープがある辺りが牢口。 日焼(ひやけ) 日照りで水が枯れる耕作地という意味。 現在の若葉台小学校近辺がその比定地と思われる。 若葉台小学校は、2010年現在33学級で、東京一のマンモス校とのこと。 横の稲城第六中と共に新設で綺麗な学校で羨ましいが、人数が多いのですね。 山中(やまなか) その名の通り、山の中の畑という意味。 写真内、稲城六中の向こう側が山中の場所。 秋原(あきはら)、前秋原(まえあきはら) 多摩市連光寺との境。 秋原将監(あきはらしょうげん)という中世武士の居館があった場所、という説がある。 当「秋原」と後述「将監谷」から連想されたのが『秋原将監』なる人物だと思われるが、 私が研究した武蔵七党や坂東八平氏の中には「秋原」という苗字は見当たらない。 前秋原は「秋原の手前」か。 若葉台最奥の高台より秋原を見渡す。 将監谷(しょうぎやと) 将監を「しょうげん」ではなく「しょうぎ」と読む。 上述の秋原将監がいたのではという説の元になった地名。 ショウギは関東の方言で「丸い深爪形」という意味。 深爪形状の谷ということか。 若葉台パークヒルズ近くには谷崖の形を残す緑地がある。 六本松(ろっぽんまつ) その名の通り、旧道沿いに六本の松の木が生えていた場所。 現在は多摩カントリー内となっている。 稲城第三公園から撮影。 石名久保(いながくぼ) 上谷川の上流部北側にあった窪地。 イナ(砂地)の窪地という意味。 今は埋め立てられて野球場(稲城第三公園)や尾根幹線道路になっている。 松久保(まつくぼ)、小豆沢(あずきさわ) 松久保は上谷川の南側にあった緩やかな窪地。 マツはマト(小さな平地)、小さな平坦な窪地という意味。 小豆沢は小豆ヶ谷戸(あずきがやと)とも云われる、上谷川の支流。 アズキ(崩れた崖)の沢という意味。 写真(左)の右側の森・その手前辺りが、小豆沢の名残か。 写真(中)は松久保あたりから壇場へと上がる道。 写真(右)は付近旧家の長屋門。 とても立派! 現地には「松久保」なる屋号のお宅が現存している。 金井坂(かないざか) カナイ(鉄分を含んだ川や水路)の坂という意味。 角度が30度近くもある旧坂が、上谷川から南へ向かう途中にあったらしい。 しかし、地元の方の話では上谷の北側の山を登る道であったともいう。 金井坂周辺の様子。 現在では立派な幹線道路が交錯する形で走る。 壇場(だんば) 「土壇場」というように、中世時代に罪人の刑場があったという説があるが、 ダンは段、バは場所で、「台地」(だいば)といった意味だろう。 この台地は現在では真新しい住宅地となっている。 電線は地下に入り、歩行者専用の道も設計された美しい住宅街だ。 杉原(すぎっぱら) 杉が生えた原か、またはスキ(砂礫)の原という意味か。 杉原近辺の現在の様子。 この道を上谷大橋へ行く右手に於部屋八幡宮がある。 ちなみに、戸隠そばで有名な信州戸隠は日本神話の「天の岩戸隠れ」で 天手力男が岩戸をそこまで投げ飛ばしたから、という伝説がある。 坂浜戸隠もそうだったら面白いのですが。。。 坂浜戸隠バス停付近の様子。 観音山(かんのんやま)、堂ノ前(どおのまえ) 妙福寺の観音堂(廃寺)があったという小丘。 その南側だから堂の前(南)か。 鶴川街道から見た現地付近の様子。 緩やかな傾斜に畑が多く残っている。 於部屋(おへや) 三沢川北岸、古くより集落があった場所。 富永氏(戦国期には後北条に属して郡司、江戸期には村名主)の 御部屋様の居住地だったという伝説が残っている。 「於部屋バス停」。 三沢川に架る「おへやはし」。 裏山(杉原近く)の「於部屋八幡宮」。 上谷(かさやと) 上谷戸とも。 鶴川街道に掛る「弁財天橋」の下を流れる上谷川沿いの谷地。 現在でも水田・畑・旧家が多く、里山を感じさせる。 地名の由来は、その名の通り「上の谷」という意味。 『稲城の昔ばなし改訂版』に当地を舞台にした『おしゃもじ稲荷』が掲載されている。 上谷川沿いの遊歩道、川沿いの畑、上谷橋。 谷奥の旧家脇にあった馬頭観音。 神明前(しんめいまえ)、神明下(しんめいしも) 上谷の守神であった神明社があった場所。 「天満神社」の項で紹介しているが、この社殿は大正十五年に 天満神社の本殿として曳かれて行ってしまい、この場所には無い。 上谷神明社は伊勢神宮の御師が勧請、祭神は天照大神だったとのこと。 神明前は神明社の南(マエ)、神明下は神明社の下流という意味。 神明社があった辺りの谷上から撮影。 奥には上谷戸大橋が見える。 間渡(まわたり) 馬渡とも。 竜(りゅう)、小竜(こりゅう) リュウはリョウ(山稜=尾根)の訛り。 コリュウは小さめの~という意味。 間渡・竜・小竜・滝沢は現在「多摩カントリークラブ」内部となっているため見られない。 滝沢(たきざわ) 元々は山林だった場所。 タキは断崖や高所、崖のある沢ということか。 山崎(やまざき) 山の崎(先端部分)ということ。 堂ヶ谷(どおがやと) ドオは川の合流地や曲がった地形という意味、山沿いに曲がった谷という意味。 宝蔵院の本堂が近くにあるが、この谷は当寺の寺領ではなかったので、 地形にちなんでで付いたと見られる。 堂ヶ谷には『稲城の昔ばなし改訂版』に『お諏訪さまと蛭』として逸話が掲載されている。 谷の上部から山崎・三十坂方面を撮影。 三十坂(さんじゅうざか) サンジュウは三十か三重か不明。 サンザカとも。 当地にある旧家の屋号が「三十坂(さんざか)」と名を残しているそうだ。 上谷の屋号『三十坂』宅は萱葺きの立派なお宅。 和田(わだ) 山麓で上谷川沿いの集落があった場所。 今でも人家が多い。 ワダは「川が曲流している広い丸みのある平地」という意味らしい。 道沿いに人家が立ち並んでいる。 広見(ひろみ) 三沢川と上谷川が合流するあたりの低湿地帯。 南の方向が広く見渡せる場所だった。 広見、和田あたりには今でも水田が青々と波打っていた。 根方(ねがた) 坂浜村の高札場があったと云われる場所。 山の根(麓)の方ということ。 ここらには『稲城の昔ばなし改訂版』に『婆塚橋』として逸話が掲載されている。 付近には上谷川に架かる鶴川街道の『弁天橋』がある。 木ノ下(きのした) 鶴川街道の両側で、西は山麓、東は三沢川という低地。 目印となるような大きな木があり、それを地名にしたか。 鶴川街道から集落へ入る道。 権現堂(ごんげんどう) 当地にある権現山宝蔵院の本尊が不動明王であり、 不動明王権現(権現とは仮に現れるという意味)を祀る堂があった。 宝蔵院の本寺、高勝寺本堂に安置されている不動明王像。 甚吾谷戸(じんごやと) 甚吾さんの開発した谷ではなく、ジン(山腹の小平地)の谷(湿地)という意味。 甚吾谷戸はそのまま稲城中央公園内へと続く。 2011. 写真奥側が甚吾谷戸、手前は柳田あたり。 向田(むかいだ) ムカイ(太陽に向いた斜面)なので、南斜面の田ということ。 後谷戸(うしろやと) 本拠地から見てウシロ(北)の谷という意味。 現在の長峰小学校から鶴川街道へ下りる坂道の谷。 長峰小学校前の陸橋から後谷戸を見下ろす(左)。 駒沢学園交差点から(右)。 稲窪(いなくぼ) 石名久保(村内同名在り)とも。 鶴川街道沿いのワークマンがある裏手。 イナ(砂)の窪地という意味。 この田の地主さんが「ここはイシナだ」と教えてくれました。 窪地には現在も広い棚田がある。 秋には稲干しが壮観だ。 荒井坂(あらいざか) 旧鶴川街道の坂。 百村との境界あたりに位置する。 アライ(新井、新しい用水路)が三沢川へ下る坂ということか。 鶴川街道から左の道を入っていくと荒井の坂道となる。 坂に入って左手には細い坂道が六間台(百村)へ続く。 台田(だいた)、荒井ノ坂(あらいのさか) 台田は百村との境。 現在の稲城中央公園の総合グラウンドあたりの台地。 荒井ノ坂は百村の石荒谷戸(現多摩CC内)に繋がる坂道があったとのこと。 前述の鶴川街道沿い『荒井坂』とはまた別の坂らしい。 左は稲城中央公園総合グラウンド。 右は荒井ノ坂付近(くじら橋より撮影)。 現在は真新しい戸建て住宅街になっている。 長峰(ながみね) 現在の長峰地区の地名由来ともなっている。 山頂が平らな峰が長く続いている場所。 現在は多摩CC内となっている。 現在の長峰地区からはけっこう離れた場所にある長峰。 長峰地区内には百村から連光寺へ抜ける古道「長峰道」が通っていた。 長畑は長い畑ではなく、ナギ(崖、遠い)で遠くにある崖下の畑という意味らしい。 大久保はその名の通り大きい窪地。 これらは現在多摩CC内になっている。 荻ノ谷(おぎのやと) ここは大丸から続いている旧陸軍の火工廠多摩火薬製造所(現米軍施設)であった。 オギ(小さな木、灌木)の生えている谷ということか。 細田(ほそだ) ここも荻ノ谷同様、現在は米軍施設内となっている。 湿地帯や川がある場所ではないので、細長い乾田(畑)ということか。 池ノ谷(いけのやと)、丸谷(まるやと) 大丸と多摩市連光寺の境にあたる地域。 池があったわけではなく、イケ(谷頭、山麓、背後に山がある)の谷という意味らしい。 丸谷はそのまま丸い谷ということ。 是非、興味ある方は見に行ってください。 資料館員ボランティアの方が丁寧に説明してくれます。 Copyright C 2010 Suzuki Makoto All Rights Reserved | | | |.

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川 の 守神

コウモリは日本では30種以上がおり、どこでも居る物です。 ただし、住宅地に完全適応しているコウモリはアブラコウモリという1種に限定されます。 アブラコウモリはねぐらや繁殖場所に人工構造物(例えば人家の屋根裏や戸袋、瓦の隙間など)を好みます。 アブラコウモリはまず北海道には居ません。 ただし、住宅地専門ではないコウモリの種はヒメホリカワコウモリ(キタクビワコウモリ)やドーベントンコウモリなど北海道では多いので住宅地で見かけることも珍しくありません。 また本州以南でもアブラコウモリの分布には興味深い物があり、住宅地でも多いところもあれば全く居ないところもあります。 ただ、アブラコウモリ以外でも海の近くでは海蝕洞にユビナガコウモリが多数いたり深い山があったりすると沢山のコウモリが見られます。 まあ、ユビナガコウモリはやや大きいので質問の趣旨にあってないかも知れませんが。 結論から言うと、日本全国で小さなコウモリはどこでも見られますが、高密度で居ることもあれば、そうでない場合もあります。 私的にはおおよそそこそこの川の近くにはだいたい多いように感じます。

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銚子川

川 の 守神

晴れ 朝鮮通信使は室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団で、豊臣秀吉の文禄・慶長の役後しばらく途絶えていたが、江戸期に入って再開された。 この使節団は朝鮮国の首都漢陽を出発して釜山に着き、ここから海路対馬へ向かう。 その後壱岐、赤間関 下関)を経由して瀬戸内海を渡り、大阪湾へ入って淀川を遡り、淀の納所に到着、ここから鳥羽街道を北上して京に入った。 京から東海道を草津へ向かい、ここから分岐して中山道へ進む。 中山道野洲の行畑で中山道から更に分岐、その先の鳥居本で再び中山道に合流するが、この野洲から鳥居本までの道が朝鮮人街道と呼ばれている。 この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、佐和山城からこの街道を通って上洛した吉例の道で、大名行列の往来は許されなかった街道だったという。 使節団はなぜ中山道を使わず、この街道を通ったかという理由に、この吉例の道であると同時に、400名を超す大人数の使節団を受け入れる環境が近江八幡、彦根という都市に整っていたということがあるという。 使節団はその後、美濃路を経て、名古屋の熱田で東海道に合流して江戸へ向かい、約2000㎞を約五か月以上かけて進んだという。 中山道との分岐点にあった「右 中山道」「左 八まんみ(ち)」と刻まれている享保4年(1719)の道標は、現在は中山道と朝鮮人街道の分岐点より少し下がった「蓮照寺」の境内に置かれている。 「八幡道」とは朝鮮人街道のことであり、地域によっては「唐人街道」「京道」「京街道」「彦根道」とも呼ばれていたという。 またその横には「従是北淀領」と刻まれた山城国淀藩領だった行合村の村境から移築した境界石が立っている。 蓮照寺を出て中山道を分岐点に向かって進む途中右手に行事神社があり、ここに「背くらべ地蔵」と「阿弥陀如来立像」がある。 この石仏は鎌倉時代のもので、中山道を行き交う旅人の道中を守ったといわれており、また当時は乳児がよく死んだので、子を持つ親たちが、「わが子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべをさせるようになり、いつしか「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになったという。 この神社には鳥居と拝殿のあいだに、大きな勧請縄がかけられている。 毎年、1月に氏子たちによって架け替えられ、村に悪霊や疫病などが入ってこないようにと 1年間 吊るされるという。 その先で中山道との分岐点に着く。 ここには分岐点を示す標識が立っている。 ここを11時48分に出発する。 右手に野洲小学校があり、街道との間に「祇王井川」が流れている。 奈良時代の頃、この地の庄司橘次郎時長の子供だった祇王・妓女が、平清盛の寵愛を受けた。 祇王は故郷の水利が悪く、旱魃に悩まされていることを清盛に訴え、承安3年(1173)に三上地先の野洲川から琵琶湖野田浦に至る約12㎞の水路を作ってもらったという。 その恩恵をたたえて、この水路を「祇王井」と名づけ、現在でも近郷十カ村の灌漑用水をまかなっているという。 右手に駅前サウルス公園があるが、ここは野洲群勧業館や野洲郡役所があったところで、後には野洲町役場があった場所だ。 野洲駅前の信号交差点の右手に真宗木辺派の本山である錦織寺への道標が立っている。 街道はその先でJRの線路によって消滅しているため、跨線橋を渡って線路の反対側にでる。 跨線橋を渡った先、左手に「円光寺」がある。 ここは長福寺と円光坊というお寺が室町時代末に合併してできた天台宗の寺院で、本堂は康元2年(1257)に建立された。 境内には同時期に建てられたという九重石塔が立っている。 これらはともに重要文化財に指定されている。 JRの線路を渡る前の道の延長線上に伸びている道を進み、祇王井川を渡って富波乙の集落を進んでいくと、左手少し入ったところに「生和神社」がある。 ここの草創は平安時代で、その後富波荘の領主鎌倉左衛門次郎が祖先を氏神として祀ったと伝えられている。 本殿は南北朝時代の建立と考えられている。 また境内には鎌倉時代の建立と考えられている春日神社本殿があり、共に重要文化財に指定されている。 その先、左手入ったところに「常楽寺」がある。 「滋賀県歴史の道調査報告書」によると、ここには平安時代の釈迦如来坐像や室町時代に造られた観音大士坐像があるということだったが、だれも住まれていないようで、わからなかった。 街道に戻って進むが、旧い歴史を感じさせる家が数多く建っている。 この辺りは古くは古墳時代の遺跡や、平安時代、鎌倉時代の遺跡があり、また、室町時代後半の六角氏の家臣として、このあたりを中心に勢力を伸ばした永原氏の本拠地でもあった。 織田信長は永原氏の没落後、家臣佐久間信盛を上永原城に配し、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いでここを軍勢の集結地点として使用するなど、古来ぞれぞれの時代での戦略上の拠点でもあった場所だ。 右手に旧屋棟川の守神を祀っているという「屋棟神社」がある。 その前、街道を挟んで反対側に足利義持が創建したと伝えられている「福泉寺」がある。 その先へ進んでいくと、左手に福泉寺の伽藍の一堂であったという「薬師堂」がある。 ここには平安時代後期の作品といわれる薬師如来坐像がある。 ここから街道を外れて左折して進むと、永原氏の菩提寺の「常念寺」がある。 ここには正応元年(1288)の層塔がある。 街道に戻って進み、その先から再び街道から外れて左折して進むと、「土安神社」がある。 祇王井川を造るとき、工事の途中で蹉跌したが、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したので、上流を祇王井川、下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀ったという。 ここから更に左折して進むと、「永原御殿址」がある。 ここは徳川家康から三代家光までの将軍上洛時の宿泊所として使用されたという。 特に寛永11年(1634)の家光上洛の際には大整備が行われ、本丸、二の丸、三の丸と、それまでの約六倍の広さに拡充されたという。 その後貞享元年(1684)に廃止され、今ではわずかに石垣の一部が残るのみとなっている。 その先に「菅原神社」がある。 ここは文禄元年の天神社記によれば、文治2年(1186)源頼朝公の勧請により創立と記されているが、創立は更に古く、康保年間(964~968)と説明されている。 ここの神門は室町時代後期のものとされており、重要文化財に指定されている。 ここから逆方向へ戻って行くと「祇王寺」がある。 ここは祇王、妓女を祀っているそうだが、無住で中を見るには予約が必要とのこと。 そのため見ることはできなかった。 ここから街道に戻って進むと、右手に明治13年の常夜燈が立っている。 またそのすぐ横に「朝鮮人街道」の看板が立っている。 こうした標識は歩くうえで非常に助かるものだ。 その先で48号線に出る。 街道はそのまま48号線を横断して進むのだが、今日は夕方までに京都まで戻らなければいけないので、ここで街道から離れて右折して進むと、その先右手に少し入ったところに「春日神社」がある。 ここの神門は永正8年(1511)に建てられた簡単な造りの棟門で、重要文化財に指定されている。 15時5分に篠原駅に着く。 本日の歩行時間 3時間17分。 本日の歩数&距離 17586歩、12.4km。 本日の街道純距離 5.7km。 (途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離).

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