を祈ります。 ニーバーの祈り

祈り(イノリ)とは

を祈ります

(画像引用) 「わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。 わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。 私は私。 あなたはあなた。 もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。 しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ」 (原文) I do my thing, and you do your thing. I am not in this world to live up to your expectations, And you are not in this world to live up to mine. フレデリック・S・パールズ(ドイツの精神科医) [1893~1970]この「ゲシュタルトの祈り」は、パールズが創設したゲシュタルト療法の思想を盛り込んだ詩で、彼はワークショップでこの詩を読み上げることを好んだという。 この詩は、ゲシュタルト療法を始め多くのカウンセリング療法の精神や哲学をよく表しています。 何かの犠牲になることなく自分を大切にすること、他人を尊重すること、健全な人間関係はその上に成り立つという事を語ってくれていると思います。 その線引きがうまくできずに苦しんでいる人にとって、この詩は救いになるはずです。 この詩に出会って生きるのが楽になったという人も多いようです。 この「ゲシュタルトの祈り」は複数の日本語訳が存在し、それによって若干印象が変わります。 特に最後の一文に関しては「仕方ない」という表現に違和感を感じる人もいるようです。 その場合は以下のように「それもまた同じように素晴らしい事だ」という言葉にした方がしっくりくるという人もいます。 言葉の微妙なニュアンスによって受け取る印象が変わるので、参考までに「ゲシュタルトの祈り」の別訳も2パターン掲載しておきます。 「ゲシュタルトの祈り」その他の日本語訳 「私は私のために生きる。 あなたはあなたのために生きる。 私は何もあなたの期待に沿うためにこの世に生きているわけじゃない。 そして、あなたも私の期待に沿うためにこの世にいるわけじゃない。 私は私。 あなたはあなた。 でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。 たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。 」 「われはわが事をなさん。 汝は汝の事をなせ。 わが生くるは汝の期待に沿わんがために非ず。 汝もまた我の期待に沿わんとて生くるに非ず。 汝は汝、われはわれなり。 されど、われらの心、たまたま触れ合うことあらば、それにこしたことなし。 もし心通わざればそれもせんかたなし」(国分康孝訳).

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祈り ― なぜ?

を祈ります

このページでは、 結城浩が祈るときに心がけていること、 心がけたいと思っていることをまとめます。 このページは現在の状態で完成ではなく、 随時更新する予定です。 結城は、このページの中で、祈りについて できる限り具体的に書きたいと思っています。 私はイエスキリストを信じるクリスチャンで、 毎日さまざまなことについて祈っています。 抽象的な話ではなく、 神学的な議論ではなく、 等身大の自分の経験から言えることを丁寧に書いていきたいと思っています。 以下のお祈りは、イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくださった お祈りです。 主イエス様が教えてくださったお祈りなので、 「主の祈り(しゅのいのり)」と呼ばれています。 翻訳によって言葉づかいは異なりますが、 新約聖書マタイによる福音書6章9節〜13節に書いてあります。 天にまします われらの父よ 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ 御国(みくに)をきたらせたまえ みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ われらを試みにあわせず 悪より救い いだしたまえ 国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり アーメン お祈りをしたことがない方でも、 「お祈りをしたい」と思うことがあるものです。 自分のために、あるいは人のためにお祈りしたくなったときのために、 ここでは「祈りの方法」について書いてみます。 ご注意:ここに書かれた「祈り方」でなければ駄目だ、 と言おうとしているのではありません。 実際のところ、祈り方はある意味で自由なのです。 けれど、これまで祈ったことがない方、 クリスチャンが祈っているのを見たことも聞いたこともない方のために ちょっとしたガイドがあればよいと思って書いているのです。 どうぞご理解くださいますように。 結城自身、はじめて祈るときにクリスチャンの先輩に聞いたものでした。 「あの…、手はどこに置けばいいんですか? 十字を切るんですか?」って。 その先輩は丁寧に「手はどこに置いてもいいんですよ。 組んでもいいですし、組まなくてもいいです。 十字を切る人もいますけれど、切る必要はないんですよ」と教えてくださったのです。 一人で祈る場合には、あなたが、祈ります。 祈るのに資格はいりません。 何の準備もいりません。 年齢も、性別も、国籍も、気にする必要はありません。 あなたが、祈ることができるのです。 あなたを特別な存在としてこの上なく愛してくださる神に祈ります。 唯一絶対の神に祈ります。 永遠の過去から永遠の未来まで存在する、全知全能の神に祈ります。 あなたの本当の父親である神に祈ります。 あなたを危険から守ってくださる神に祈ります。 この天地、宇宙全体、素粒子の一つ一つまでお造りになった神に祈ります。 すべての生命をお作りになり、そして何より、あなたを今、ここに存在させてくださる神に祈ります。 私は誰に祈っているのだろう、と自問するのはよいことです。 自分が祈っている神さまについて知りたいときには、 聖書を読み、教会に行き、あるいはクリスチャンに話を聞きます。 「神さまってどんな方なのだろう」• あなたを愛してくださる本当の神さまに祈りましょう。 あなたの願いを聞いてくださる方に祈りましょう。 石ころに祈るのはやめましょう。 ハンマーの一叩きで壊れるようなものを頼りにするのは空しいことです。 紙切れに祈るのはやめましょう。 マッチ一本で灰になるようなものを頼りにするのは愚かなことです。 単なる人間に祈るのはやめましょう。 どんな人間も、死んでしまうものですから。 お金や地位や名誉や家や洋服やコンピュータに祈るのはやめましょう。 あなたがそれらのものをいくら愛しても、人格のないものはあなたを愛することはできません。 神社、寺院、仏壇、仏像、神像、御札、絵画、彫像、アクセサリー、数珠…そういったものに祈るのはやめましょう。 それは単なる「モノ」にすぎません。 山、森、雲、炎、太陽、月、星…そういうものに祈るのはやめましょう。 それらもすべて単なる自然現象や被造物にすぎません。 現代にはたくさんの「まやかしもの」があります。 聖書に書かれている本当の神さま以外に祈るのはやめましょう。 いつでも祈れます。 祈ろう、と思ったときにどうぞ。 いつでも祈っていいのですが、お勧めの時というのもあります。 特に目が覚めてすぐに「神さま、感謝します」と祈る習慣はとてもいいものです。 食事の前。 食事の前に「神さま、この食事を感謝します」と祈ります。 仕事や勉強をはじめる前。 「神さま、この仕事/勉強を誠実に心を込めて行うことができますように」• 決断・決心・判断をするとき。 「神さま、自分のわがままな思いで決めるのではなく、あなたからの正しい知恵によって決めることができますように」• 人と会う前。 会議の前、デートの前、部屋に入る前、に「神さま、私とともにこの場にいてください」と祈ります。 眠る前。 「神さま、今日の一日を感謝します」と祈ります。 車の運転前。 「神さま、安全運転できますように」と祈ります。 飛行機が離着陸するとき。 「神さま、パイロットを導いてください。 無事に飛行機をコントロールしてください」と祈ります。 手紙や葉書を投函する前、メールを送信する前。 「神さま。 この手紙を出してもいいでしょうか。 …(ここで少し待つ)…無事に届けてください。 この手紙を通しても神さまの栄光がたたえられますように」と祈ります。 時間を決めて、集中して長く祈るのもよいことですが、そのように祈らなければならないわけではありません。 どこで祈ってもかまいません。 が、お勧めの場所というのもあります。 会社や学校の自分の席。 自分の家の決まった場所。 集中して祈りたいときには、一人になれる少しさびしい場所がいいです。 静かで、小声を出しても大丈夫な場所ならなおいいです。 目をつぶっても危険のない場所がいいです :-• 歩きながら。 通勤・通学の途中など。 寝床の中で。 お風呂の中で。 ドアの前で。 どんな姿勢でもいいです。 が、お勧めの姿勢というのもあります。 腰掛けるか座るかします。 両手を組んで、目を閉じます。 両手は組んだ方が落ち着きます。 両手を組まなくてもいいです。 両手をあげて祈るのもいいですし、踊りながら歌いながら祈ってもいいです。 目は閉じなくてもいいです。 誰かと話しながら、心の内で祈ることもできます。 十字を切ったりする必要はありません。 切ってもいいですけれど。 立って祈っても、横になって祈ってもいいのですよ。 深呼吸してから、以下のように話しはじめます。 肉眼には見えないけれど、 あなたの祈りを耳をすまして聞いている神さまに向かって話します。 心のうちで話してもいいですが、そっと声に出した方が祈りやすいです。 神さまに対しては心を開きます。 神さまはあなたのことを全部知っています。 ですから、自分の思いや考えを隠す努力は無駄です。 そうではなくて、心をすべて神さまにさらけ出すという意識をもって祈ります。 はじめは、神さまへの呼びかけからはじめます。 あなたが他の人に話すとき、その人への呼びかけから始めるように。 できるなら、あなたの知っている範囲でかまいませんから、神さまをほめたたえましょう。 神さまを賛美しましょう。 「賛美は要求に先立つ」「感謝は要求に先立つ」と言われています。 心から信じて祈りましょう。 信仰の深さや大きさは人と比べることはできませんし、比べる必要もありません。 祈りは、あなたと神さまの個人的なコミュニケーションです。 あなたの心の底から全知全能の創造主、父なる神さまに祈りましょう。 いくつか例を上げてみましょう。 「天にいらっしゃる神さま。 あなたのお名前をほめたたえます。 「愛する天のおとうさま。 御名(みな)を賛美します。 「天にまします われらの父よ。 あなたの栄光を賛美します。 心を開きましょう。 心を開いて、神さまに心の深いところまで探っていただきましょう。 「心を開く」という宣言を言葉の形で表しましょう。 いくつか例を上げてみましょう。 「神さま。 いまあなたの前にひざまづき、心を開きます。 「神さま。 どうぞ私の心を探ってください。 そして、その後、あなた自身の言葉で、神さまに話しかけます。 長く話しても、一言でもいいです。 好きなことを好きなだけ。 正直に打ち明けましょう。 どんなみにくい姿が出てきても構いません。 神さまは悔い改める心を喜ばれる方ですし、 私たちの汚れをきよめてくださる方です。 「こんなにひどいことは神さまにも言えない」というのではなく、 むしろ「自分のこここそ、神さまにきよめていただきたい」という態度で祈りましょう。 いくつか例を上げてみましょう。 「神さま。 ぼくは疲れました。 助けてください」• 「おとうさま。 元気になりました、ありがとうございます」• 「主(しゅ)よ。 どうしても母親を憎んでしまいます。 どうしてですか」• 「幸せな結婚をするために、どのようなことをすればいいでしょうか。 教えてください」• 「神さま。 感情的には納得がいかないことでも、「こうしたほうがよい」と思うことについてはそのように宣言しましょう。 いくつか例を上げてみましょう。 「あなたは癒し主ですから、癒してくださることを信じます」• 「もっとお母さんを愛することができるように助けてください」• 「いま、不安をイエスさまのお名前で追い出します。 不安よ、出て行け。 不安よ、立ち去れ!」• 最後に、イエス・キリストの名前で祈りを終えます。 イエス・キリストのお名前はおまじないではありません。 必ずイエスさまの御名の権威を 信じて祈ってください。 「試しに祈る」のではなく神さまを「信じて祈る」態度がとても大切です。 「イエスキリストのお名前によってお祈りします。 アーメン」• 「イエス様の御名によって、この祈りをおささげします。 アーメン」• 自分の信仰のなさ、信仰の薄さが気になる方は、それをも祈りましょう「信仰を与えてください」「信仰を堅くしてください」のように。 雑念が浮かんでもあまり気にせず、祈りを進めます。 少しの間、じっと心の耳をすまし、お祈りを終えます。 心の中に、神さまからの答えが返ってくることもあります。 そのときには、じっとそれを聞きます。 そしてそれについて思うことがあったら、 またそれをそのまま祈ります。 これこそが「神さまとの対話」です。 祈った後、 心に浮かぶ思いがすべて神さまからのものとは限りません。 注意深く吟味する必要があります。 神さまは聖書に反したことを語ることはありません。 相手と話をして、祈るべきこと/祈ってほしいといわれたことがある程度わかってから祈るとよい。 祈っていいですか、と聞き許可をとってから祈る。 夫婦、あるいは恋人同士のために祈るときは、(原則として)二人いっしょか、男性側へ祈る。 相手が異性の場合、手をおいては祈らない。 例えば男性が既婚女性のために祈る場合には、既婚女性のご主人に手を置いてもらい、そのご主人の手の上から手を置く、という方法もある (つまり、直接女性に手を触れているのはご主人のみ)。 他の人がいない場所で祈った方がいいことが多い。 ただし、その祈りの場が誘惑にならないようにすること。 特に相手が異性の場合には、相手と同性の人が必ず同席するようにし、 二人きりにはならないようにする。 静かな場所で祈る。 くどくどと祈らない。 自分の世界観を相手に押し付けない。 状況を主にゆだねる。 相手を支配しようとか、相手よりも自分が偉いとか思ってはいけない。 祈る人が、祈られる人を支配しようとしてはならない。 ベトベト、グチャグチャしない。 自分が主から受けたものをさらりと相手に伝える。 祈った後、何か主から示されたことがあれば、率直に伝える。 しかし、それが聖書に反する内容ならば、伝えない。 祈った後は、現実世界にうまく戻ってくるように、すこし雑談してから別れる。 しかしその間も主からの語りかけ(それは自分にくるかもしれないが、相手にくるかもしれない)に霊の耳をすますこと。 人間は機械ではない。 その時・その場の状況に柔軟に対処する。 マニュアル化しないように。 いのちやいぶきが失われないように。 もしかしたら、その相手とはもう一生会えないかもしれない。 継続的に祈る。 自分の霊的な状態に注意し、場合によっては他のクリスチャンや牧師先生の助けを受ける。 祈られている人だけが主のケアを受けているのではない。 その場全体、祈り手、まわり全体が主のケアを受けていることを忘れない。 いつも聖書をよく学び、自分勝手な信仰に陥らないように注意する。 クリスチャンにとって、「いのり」は呼吸、「みことば 聖書 」は食事に相当する。 私が祈れるのも神さまのおかげであり、祈りに喜んでいただけたのも神さまの働きなのだから。 栄光を自分に帰さない。 栄光は神に帰すこと。 悩んでいたり、苦しんでいたりするかたに対して、私は本当に何もできない。 けれど、神さまのおかげで祈ることはできる。 相手の話をよく聞く。 相手の使っている表現を尊重する。 価値判断はあとにする。 全体の様子をイメージする。 すっぽりぬけている部分があったら問う。 自分をえらいと思わない。 自分が相手の悩みを解決しようと思わない。 相手が気がつかないポイントに光を当てる。 時間と神を信頼する。 …と言っている相手を「そのまま受け入れる」。 相手を変えようとしない。 結論を決めない。 矛盾している複数の状態をそのままキープし、 そこから何か新しいものが出てくるのを待つ。 おせっかいにならない。 必要以上にしゃしゃり出ない。 相手の悩みに答えるふりをして、相手からの救いを求める、という危険を避ける。 自分の容量を越えることは行わない。 自分には自分の責任範囲がある。 それを越えないように気をつける。 例えば信徒の牧会はその信徒の教会の牧師の責任範囲である。 また既婚女性の導きはその女性のご主人の責任である。 既婚女性の悩みの返事は、そのご主人に読まれてもよい内容にする。 ご主人に秘密にしなくてはならないような内容にしない。 その他。 日本人の多くは特定の信仰を持たず、特定の宗教を持たず生きている。 その土壌の中で、厳しい人生を歩んでいくことは大変なことだと思う。 家内とよく話すのは「信仰がない人たちは何を頼りに生きているのでしょう」ということだ。 私がキリストに出会う前の自分の姿を考えてみると、やっぱり自分自身を信じるとか、自分自身の努力に頼る、ということを考えていたように思う。 それって、すごい自信だと思う。 今の私はとうてい自分自身を信じるなんてできない。 頼りなく、しょっちゅうくじけるし、一貫性がないからだ。 祈り、神さまへの祈り、は思い出すことでもある。 自分が自分を頼りには生きられないことを思い出すことである。 自分は生かされているのだ。 神さまに。 神さまに隠している罪はないだろうか? イエスさまを信じ、神さまに告白して完全にきよめていただこう。 聖書に反することを祈っていないだろうか? 自分の祈りの内容を点検しよう。 自分の欲望のみを祈っていないだろうか?• ゆるしていない人はいないだろうか? 感情的にゆるせなくても、イエスさまのお名前で、ゆるしを宣言しよう。 信じて祈っているだろうか? 不信仰があるときは何も起きない。 神さまは「飼い慣らされたライオン」ではない。 神さまはあなたの命令に従うわけではない。 神さまには神さまのご計画がある。 路傍でクリスチャン以外から「祈ってあげましょう」と言われても、断固として断りましょう。 占いをしてはいけません。 「遊びだから」と軽く考えないように。 オカルト的な行為をしてはいけません。 霊媒と関わったり、コックリさんをしたりしてはいけません。 自分のまわりにオカルト関連グッズや偶像をおかないようにしましょう。 自分で処分するのがこわい場合には教会にもっていって処分してもらいましょう。 過去に以上のような経験があるなら、イエスさまにそのことを告白して、きよめていただきましょう。 路傍で「あなたのために祈ります」と言われたらどう対処すればいいか。 霊だからといってすべてがよいとは限りません。 祈れないとき、どうするか。 自分の祈りが「違うんじゃないか」と感じるとき。 祈りが聞かれないとき。 祈りを終えるべきとき。 現実へ戻る戻り方。 祈りは解決になるのでしょうか? そもそも解決だと判断するのは限られた人間の力。 聖書を読む。 教会へ行く。 牧師と相談する…偏った祈りにならないように。 複数人で祈るのは大きな力である。 賛美は要求に先立つ。 神さまのご性格・ご性質を学ぶとよりはっきり確信をもって祈ることができる。 祈り求めたことはすでにかなえられたと知りなさい。 信仰は聞くことから始まる。 しもべは聞いております。 結婚について祈る。 結婚相手について具体的に祈る。 関連聖書箇所と聖書からの引用。 悔い改めの祈り。 とりなしの祈り。 感謝の祈り。 その人の言葉に直接反応する前に、その人がそれを言っている「その人の現実」を受け入れてあげる。 その人が語っている「その事実」を尊重する。 感情のケアを忘れない。 自分の中の「常識」を大事にする。 論証できなくても、説明できなくても、「気になる」ことは「気になる」 悩みについて祈る、というのはどういうことなのでしょうね。 とりあえず、結城は「祈りの小部屋」では、いただいたメールを 読ませていただいて、私の心の中に全部内容を入れてしまう。 とりあえず、そっくりそのまま受け入れます。 で、その後、何か欠けているとか、知りたいなとか、 思いが浮かんできたら、そのことをポツポツと「お返事」の形に 書いていく。 それはいただいた内容の私なりの整理なのだと 思います。 その後、よいしょ、っと神さまの方を向いて、 神さまのご性質を賛美し、神さまから愛を受けて生きていることを 感謝する。 その後で、いまのメールに関することを 一つ一つ神さまに打ち明けていく。 「こうなんです、お父さん」 「こういうことがあります、お父さん」 「こういうふうになってほしいです、お父さん」 現実の父親は全面的に信頼するなんてできないけれど、 神さまは全面的に信頼して、 打ち明け話をする。 一つ一つ丁寧に。 最後に、署名として「イエス・キリストの名前」を書く。 そうすると、何かが起こる。 何か、というのはうまく言えませんが。 そして、最後に沈黙の時を持つ。 神の声を聞くために。 …結城は上のようなことを 「祈りの小部屋」でやっています。 決定的に大事なのは、 「ほんとうに、自分の言葉を全知全能の神がいま、まさに聞いているのだ」 と信じて「本気で祈る」ことだと思っています。 以下の文章は、現在はまだクリスチャンでないある方の疑問に対する 結城の考えです。 問い: 「クリスチャンでない自分が『神さま』と書いたり、お祈りの言葉を唱えたりしてよいか?」 答え: よいです。 でも、ほんのわずかでもいいので、信じて祈ることが大切です。 イエスキリストが教えたお祈り「」の最初は、 「天にましますわれらの父よ」で始まります。 すなわち、「神さま」は私たち人間の「父」なのです。 神さまが「父」だとすると、 私たちは「子供」であり、 「子供」が「父」に言うように、 そのように訴えるのが祈りの一つのありかたであると いってよいと思います。 ですから、神さまには「何でも言って構わない」のです。 小さな子供が、ありとあらゆる要求を親に対して求めるように。 話を進めていきましょう。 小さな子供は父のことを知りません。 赤ちゃんは、父の職業や性格、好きなこと・嫌いなことなどは知りません。 ただ、自分の要求を父にぶつけるだけです。 赤ちゃんが成長すると、父の仕事を知りはじめます。 そしてだんだん「おとうさんはこういうことを僕がすると喜ぶ」 「こういうことをしたらおとうさんが怒る・悲しむ」 ということを学びます。 そして父の能力を少しづつ知るごとに、 父との対話の内容も変わってきます。 単に要求するだけでなく、 「お父さん、僕の話を聞いてください。 どう思いますか」 「お父さん、僕の生き方はどこか変でしょうか」 などという問いが出てくるようになります。 (ここで言っているのは理想的な父、かもしれませんが) 私たち人間も同じです。 人間は神さまのことを知りません。 人間は神さまがお喜びになること、神さまのご性格を知りません。 最初はただ自分の要求を神さまにぶつけるだけです けれど、よく祈り、聖書を読み、教会で牧師さんのメッセージを 聞いて神さまについて学んでいくと、 「神さまは僕がこういうことをすると喜ぶ」 「こういうことをしたら怒る・悲しむ」 ということを知ります。 神さまについて知るごとに、 神さまとの対話の内容も変わってきます。 単に要求するだけでなく、 「お父さん、僕の話を聞いてください。 どう思いますか」 「お父さん、僕の生き方はどこか変でしょうか」 などという問いが出てくるようになります。 (あなたが神さまを知るよりもずっと先に、 神さまの方があなたのことを知っているというのも、 この世の父と子の関係と同じです) ですから、 ノンクリスチャンのあなたが、 神さまと呼びかけたり、お祈りを唱えたりすることは 全然かまいません。 けれど、そこにとどまるのではなく、 ぜひもっと、神さまのことを知ろうとなさってください。 そうすると、あなたのお祈りも少しづつ変化してきます。 そしてそれはすなわち、 あなたの人生全体が神さまに導かれていくようになる ということでもあるのです。 そのときでも、必ず「祈るときには信じて祈る」という姿勢は大切になります。 神さまの名前はおまじないではありません。 イエスさまの名前もおまじないではありません。 神さまに「試しに祈る」という態度ではなく「信じて祈る」のが大切です。 あなたの本当のすばらしい人生は、 自分が自己中心で生きている存在であることを心から認め、 それを悔い改め、 神さまの存在を信じ、 イエスキリストを自分の救い主と受け入れることから始まります。 自分の心の中心に自分の傲慢な自我を置くのをやめ、 自分の心の中心にキリストをお迎えすることで、 あなたは本当のあなたの人生を生きるようになるのです。 正統派キリスト教の神さまは「三位一体(さんみいったい)の神」と 言われています。 三位一体というのは、• 一位格の「父なる神」• 二位格の「子なるイエス」• 三位格の「聖霊(せいれい)」 が唯一の存在の中にある神のあり方を表現した言葉です。 祈りに焦点をあわせて説明すると、 「神さま」と呼びかけるときは、 全知全能の万物の創造主である神に注目した呼びかけになります。 「イエスさま」と呼びかけるときは、 あがない主、救い主である神、 人となって地上にやってきて、十字架にかかり、 復活した神に注目した呼びかけになります。 「聖霊さま」と呼びかけるときは、 イエスさまが昇天した後、教会を建てあげ、 信徒に力を与え、聖書の言葉を解き明かし、悟りを与え、 導きを与える神に注目した呼びかけになります。 結城の理解している範囲では以上のようになります。 けれども大事なのは、 三人の別々の神さまがいらっしゃるのではない、ということです。 あくまで、神さまは唯一なのです。

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祈り

を祈ります

解説 ジョージアを代表する映画監督のテンギズ・アブラゼが1967年、ジョージアが当時ソ連の構成国だった時代に手がけた作品で、76年の「希望の樹」、87年の「懺悔」とあわせて「祈り3部作」として知られる一作。 19世紀ジョージアの国民的作家V・ブシャベラの叙事詩をもとに、ジョージア北東部の山岳地帯に住むキリスト教徒とイスラム教徒の因縁の対決を描き、敵味方を超えた人間の尊厳と寛容をうたった。 日本では長らく劇場未公開だったが、製作から51年を経た2018年、「希望の樹」「懺悔」とあわせた3部作同時公開で、初の劇場公開が実現。 1967年製作/78分/ソ連 原題:Vedreba 配給:ザジフィルムズ スタッフ・キャスト グルジア(現在のカナ表記はジョージアみたいです)の映画といえば「ピロスマニ 」しか観たことがなく、今作のテンギズ・アブラゼ監督は知りませんでした。 グルジアを代表する映画監督だったのですね。 そして、1967年の今作、76年の「希望の樹」、87年の「懺悔」を「祈り3部作」というとのこと。 まず映像がすごい。 冒頭から強烈なコントラストのモノクロ映像に圧倒される。 時代も国籍も不明で、まったく知らない世界に引き込まれた。 異教徒としてお互いを憎み、殺し合いを続けるキリスト教徒とイスラム教徒。 そんな彼らの中にも敵味方を超え、同じ人間として相手を慈しむ者がいたが、同胞に排除された。 まさに集団で行う「悪」に対し寛容であれと祈るが如き深遠なる傑作。

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