美保 神社。 【美保神社】アクセス・営業時間・料金情報

美保神社(島根・松江市)

美保 神社

・・・・・・ 旦那はとっても歴史とかいろいろ強いので説明してくれるんですが、 私は苦手でちんぷんかんぷん・・・ とにかく!すごいところなんです!! 私が言っても説得力が。。。 ない(笑) 鯛の御朱印帳が可愛い?!美保神社はお守りだけじゃなかった! 美保神社といえば! 鯛のお守りもかわいいんですが・・・ 御朱印帳もおススメなんです。 「御朱印(ごしゅいん)」とは、神社や寺院において、参拝者に向けて押印される印章・印影の事です。 押印の他に、参拝した日付、寺社名・御祭神・御本尊の名前などを墨書きして下さるところが一般的です。 また、御朱印をもらう(拝受といいます)ために使用する帳面を、「御朱印帳(ごしゅいんちょう)」と呼びます。 御朱印の起源は、寺社へ写経を納めた(納経)際の受付印であったとされています。 今は御朱印を集めることも、ちょっとしたブームとなっていますよね。 いつも旅行で神社に行くのに、御朱印帳を持って行ってない我が家は・・・ ついに! 鯛の可愛さに負けて・・・・ あは~今後はちゃんと持ち歩いて参拝しようと思います。 ちなみに、美保神社の御朱印はこちら。 あと必見は絵馬です! もちろんこちらも鯛! そして釣りで釣られたような感じで絵馬を奉納します! スポンサーリンク 最強タッグ?!出雲大社と美保神社の参拝で良縁が・・・ あの縁結びで有名な 出雲大社の大国主神(だいこく様・父)と美 保神社の事代主神(えびす様・息子)は親子なんです。 上で旦那さんが言っていたように、昔から 出雲大社を参拝したあとに美保神社に参拝する ということが習わしだったようです。 2つを参拝( えびすだいこく両参り)することで、良縁に恵まれるといわれるようになったようです。 それは、 想い人だけに限らず、家族・仕事・夢などの縁も含まれるそうですよ。 なんか、出雲大社だけでもすごいパワースポットなのに、美保神社までいくとかなりのご利益がありそうに思っちゃいませんか?! 両参りをすると、だいこく様とえびす様の親子愛。 だいこく様とみほつひめの夫婦愛。 残念ながら普段は灯台へは登れません。 7月の海の日のみ一般開放されているようです。 島根半島の最東端、「地蔵崎」にある「美保関灯台」は明治31年に造られた石造りの風格ある建物で 、「世界の歴史的灯台100選」に選ばれ、灯台として全国初の登録有形文化財に指定されています。 灯台の横の建物がビュッフェになっているんです! 中にはいるとすごく眺めがいい! 今回は少し曇っていて、遠くまでは見えませんでしたが、澄んでいるときは遠くの「隠岐の島」を見ながらご飯を食べたり、お茶することができるようです。 そして・・・ここのおススメは景色もですが・・・ 店員のおじいちゃんとおばあちゃん とっても気さくな方々で、いろいろ教えてくださったり楽しくおしゃべりしてくれます。 地元の人ならではの話を聞けるのって本当にいいですよね~ 恋する灯台プロジェクトで美保関灯台も選ばれました! 美保関灯台のことを調べていたら、おしろいプロジェクトを発見! 一般社団法人日本ロマンチスト協会(本部:長崎県雲仙市愛野町)と日本財団(東京都港区)が共同で実施するプロジェクトで、灯台を「ふたりの未来を見つめる場所」として定義することで「ロマンスの聖地」へと再価値化していきます。 日本全国の灯台から、ロマンスの聖地にふさわしい灯台を「恋する灯台」として、灯台がある地域を「恋する灯台のまち」として認定し、地域の観光資源としての灯台の価値を見直すことで、灯台に訪れる老若男女を増やして海への関心を高めていくことを目的とします。 こちらも上と同じですが、紹介しておきますね。 平日の場合はコミュニティーバスの利用がおススメです!.

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Q.美保神社とは?|ご利益・アクセス・駐車場など

美保 神社

美保神社(島根・松江市) [] 美 保 神 社 島根県松江市美保関町美保関608 祭神--三穂津姫命・事代主命 2019. 27参詣 延喜式神名帳に、『出雲国島根郡 美保神社』とある式内社。 出雲国風土記・島根郡条には『美保の社』 (在神祇官社)とある。 JR山陰本線・松江駅の東約32km、同米子駅から分岐する境線・境港駅の東北東約8km、中海の北を東へ延びる島根半島の先端部に鎮座する。 現に考古学上の遺跡や遺物によってもこれを窺うことができる。 かやうな訳で当神社は非常に古く此所に御鎮座になり、奈良時代には已に世に著はれ、更に延喜式内社に列せられ、後醍醐天皇は隠岐御遷幸の砌り神前に官軍勝利・王道再興を御祈願になつたと伝へるが、その後戦乱の世に軍事上・経済上の理由から群雄の狙うところとなり、遂に元亀元年、御本殿以下諸殿宇を始めとして市街悉く兵火のため烏有に皈し、吉川廣家これを再興し日本海航路の発達と共に上下の崇敬を加へ、明治18年には国幣中社御列格の御沙汰を拝し、更に明治21年には叡慮を以て御剣一口を御下賜あらせられた」 というが、創建由緒・時期についての具体の記述はない。 故に美保と云ふ ・美保の浜 広さ百六十歩 西に神の社あり 北に百姓 (オホミタカラ)の家有り 志毘魚 (シビ・マグロのことという)を捕る とある。 これによれば、美保の地は、ヤツカミズオミツ命が越の三埼から余った処を切り取って引き寄せた国で、 その美保の浜の西に、御穂須々美命 (美保須々美命とも)が鎮座する神の社があり、それが当社だという。 ただ、風土記には、現祭神である三穂津姫命・事代主命の名はない。 *三穂津姫命 (美穂津姫命とも記す) 当社HPには 「高天原の高皇産霊命 (タカミムスヒ)の御姫神で、大国主神の御后神。 高天原から稲穂を持ってお降りになり、人々に食料として広く配り広められ・・・」 とあるが、 書紀9段一書2には ・国譲りが終わって、大物主神と事代主神が八百万神を率いて天に上り、帰順の真心を披露されたとき ・高皇産霊尊が、大物主神に「お前が国つ神を妻とするなら、吾はお前がなお心を許していないと考える ・それで、吾が娘・三穂津姫をお前に娶せたい ・八百万神々を引きつれて、永く皇孫のために守って欲しい」といわれて還り降らされた とあり、大和・三輪山に坐す大物主神の后という。 当社HPが、三穂津姫を大国主の后というのは、 ・書紀神代紀8段--国造りを終えた大己貴命が、一緒に天下を治めてくれる者を求めていたとき、海を照らしてやってきた神が、「吾は汝の幸魂 (サキミタマ)・奇魂 (クシミタマ)である。 吾が居たからこそ、お前は国を平らげることができたのだ。 ・・・吾は大和の三諸山 (三輪山)に住みたい」と告げたので、宮を造って住まわさせた。 これが大三輪の神 (大物主神)である (大意) ・同一書6--大国主神は、大物主神・・・ともいう (6っの別名を記す) とあることから、大物主を大国主の別名とみてのことであろう。 (大物主は、箸墓伝承にみるように三輪山に坐す神(蛇神)であlり、崇神紀にみるように祀らなければ祟をなす神であって、大国主とは別神というのが本来の姿であろう) 当社が三穂津姫命を祭神とするのは、その神名・三穂 (美穂)が社名・美保に通じることからと思われ、それ以外に当社と姫との接点はない。 *御穂須々美命 出雲国風土記・島根郡条に、「美保郷 大己貴命の御子・御穂須々美命が鎮座していらっしゃるから美保という」とあることから (上記)、当社本来の祭神は御穂須々美命とみるのが順当で、 ・出雲風土記鈔 (1683・江戸前期)に 「祭神 御穂須々美命、御祖・大己貴命、御母・奴奈宣波比売命」 ・出雲国式社考 (1843・江戸後期)に、 「今の社説 三穂津姫命・事代主命を祭るといへり。 此は御穂須々美という神は日本紀になきにより、今さかしらに三穂津姫に改め、事代主はこの崎に遊び給ひしこと書紀・古事記に見えたるによりて祭れるならん。 今、境外末社・地主社に御穂須々美命が祀られていることは (事代主とする説もある)、同神が本来の祭神だったことの痕跡かもしれない。 その御穂須々美命が現在の三穂津姫命・事代主命に代わった時期について、美保神社の研究 (1955)は ・大日本史神祇志 (1893・明治中期)の主文では御穂須々美命とするものの 「或は云う 事代主三穂津姫二神をまつる。 いずれが是なるか知らず」 とあり ・神祇志のこのあたりの記事は徳川斎明・慶篤 (江戸後期の水戸藩主)の頃の成立であるから江戸後期に属する として、江戸後期頃に三穂津姫祭神説が出てきたのではないかという。 なお、御穂須々美命は風土記・美保郷条にのみ出てくる神で (所謂・国ツ神)、大己貴命 (大国主命)と沼河比売命との御子で美保の地に坐すというだけで詳細不明だが、古代の当地方では最も尊い神とされていたという。 この神の事蹟が不明であることから、同じ大己貴・沼河比売の御子という建御名方命 (タケミナカタ、先代旧事本紀)の別名とする説があるが、これは、御穂須々美命を記紀に結びつけるための牽強付会の感が強い。 *事代主命 事代主神とは、古事記によれば、大国主神が神屋楯比売命 (カムヤタテヒメ)を娶って生んだ御子神で (書紀に出自はみえない)、 古事記・国譲りの段に、 ・建御雷神 (武甕槌命・タケミカツチ)と天鳥船神 (アメノトリフネ)が、天照大神・高木神の使者として出雲国伊耶佐の小浜 (出雲市大社町・稲佐浜)に降って、大国主命に葦原中国を天孫に譲ることを強要したとき ・大国主神は「吾は答えられない。 わが子・八重事代主神 (ヤエコトシロヌシ)が答えるでしょう。 しかし今、美保の崎に鳥狩り魚取りに出かけています」と答えた ・そこで天鳥船神を遣わして事代主神を呼びよせて意向を尋ねたところ、大国主に向かって「畏まりました。 この国は天つ神の御子に奉りましょう」と告げ、己は乗ってきた船を踏み傾け、天の逆手 (呪術としての拍手)を打って船を青柴垣 (神霊の宿る神籬)と成して、その中に隠ってしまわれた 書紀には ・この時、事代主神は出雲の美保の崎にいって釣りを楽しんでいたので ・使いとして稲背脛 (イナセハギ)を遣わして、事代主の意向を尋ねると ・「天 ツ神の仰せに、父上は抵抗されぬのがいいでしょう。 事代主神は、一般には出雲系の神とされているが、書紀・神代紀に 「事代主神 八尋熊鰐 (ヤヒロワニ)に化為りて 三嶋 (摂津国の一郡)の溝樴姫 (或は云 玉櫛姫、玉依姫)に通ひたまふ。 而して児・姫踏鞴五十鈴姫命 (ヒメタタライスズヒメ)を生みたまふ。 是 神武天皇の后なり」 とあるように、本来は大和・葛城地方に坐す神で (奈良・御所市に事代主を主祭神とする式内・鴨都波神社あり)、神の意思を伝える託宣の神というのが一般の理解だが、それが出雲系神話に組み込まれて大国主の御子とされている。 今 当社では、左殿 (向かって右)に三穂津姫、右殿に事代主命と並べて祀り、三穂津姫の方に重きを置いているかにみえ (左右のうち左を上座とするのが普通だが、単に男は右・女は左とする慣習からともいう)、古資料にも ・延喜式神名帳頭注 (1503・戦国時代中期)--美保 三穂津姫也 一座事代主 ・雲陽誌 (1717)--美保神社 三穂津姫・事代主命の鎮座なり ・出雲神社巡拝記 (1833)--三穂両大明神 祭神一の宮みほつひめの命 二の宮ことしろぬし命 とある。 これは、延喜式に祭神一座とあるのを三穂津姫命とし、これを主祭神 (一の宮)とし、事代主命を相殿神 (二の宮)としたもので、これが従来の姿かもしれない。 しかし、 ・大日本史神祇志-- (主神・御穂須々美命 配祀・大穴貴命。 奴奈宣波比売命)或云 事代主・三穂津姫二神 ・出雲風土記考 (1742)--事代主神に三穂津姫を祭りしものなり など、事代主命を主祭神とする資料も多い。 一方当社では、事代主命について、 ・大国主神の御子神。 鯛を手にする福徳円満の神・えびす様として世に知られる、海上安全・大漁満足・商売繁盛・歌舞音曲の守護神 ・また、出雲神話・国譲りで、御父神・大国主命より大変重要な判断を委ねられた神 と、事代主神は大国主神の御子ではあるが、本来はエビス神 (恵比須神・戎神)であるとして、当社を『えびす様の総本宮』と宣伝しており、 当社蔵の「美保神社御神影図」 (資料転写)には、祭神として、向かって右には稲穂をもつ三穂津姫命が、左には右手に釣り竿を持ち左に大鯛を抱えたエビス神が描かれ、これが事代主命だとしている。 このエビス神の姿は、エビス神が海からの幸をもたらす漁業の守護神であることを示すもので、それが事代主命が美保崎で釣りをしていたことに重なることから両神を一体化し、当社の宣伝に用いたものであって、託宣の神である事代主命と福の神であるエビス神とは別神とみるべきであろう。 美保神社御神影図 エビス神は七福神の一柱で、唯一わが国生まれの神というが、その出自ははっきりせず、巷間では事代主系と蛭子系 (ヒルコ)の二系統がある。 事代主系とは当社を総本宮とする系統だが (それが何処まで認知されているかは不明)、当社が事代主命をエビス神とする所以としては、事代主命が美保崎で釣りをしていたということ以外に接点はない。 大阪にも事代主命を祭神とする「今宮戎神社」 (大阪市浪速区)があり、その由緒書きには ・当社の鎮座地は元々海岸沿いにあり、平安中期頃から宮中に鮮魚を献進し、海のものと里の産物を交換する市が開かれていた ・そこに海からの幸をもたらす神として戎神が祀られ、それが次第に福徳を授ける神・商業繁栄を祈念する福徳神として信仰されるようになった とあり、ここの戎神は市場の守護神から発展したたものであって、そこには事代主系エビス神の総本宮と称する美保神社との関係はみえない。 一方の蛭子系エビス神は、兵庫県西宮市にある「西宮神社」を総本社とするもので、そこでいう蛭子とは、イザナギ・イザナミの国生みの中で、 「次ぎに蛭子を生んだ。 3年経っても足が立たなかった。 だから天の磐櫲樟船に乗せて、風のまにまに放流した」 とある神を指し (書紀5段本文)、源平盛衰記には 「蛭子は三年迄足立たぬ尊にておはしければ、天石櫲樟船に乗せ奉り、大海が原に押し出して流され給ひしが、摂津国に流れ寄りて海を領する神となりて、夷三郎殿と顕れ給うて、西の宮におはします」 とあるという。 この蛭子が西宮神社に祀られた経緯について、 ・昔、鳴尾浦の漁師が武庫の沖で漁をしていたとき、網に神像らしきものが掛かったが気にもせず海に投げ捨てた ・漁場を和田岬の沖に移したところ、ここでも先ほど武庫沖で投げ捨てた神像が網に掛かってきた ・これはただごとではないと感じた漁師は、その神像を家に持ち帰って祀っていた ・ある夜の夢に、「吾はヒルコ神である。 諸国を廻ってここまで来たが、ここより少し西に良い宮地があるので、そこに鎮まりたい」との神託があった ・驚いた漁師は村人と相談して、神像を輿に乗せて西へ向かったところ、御前浜 (西宮海岸)で御神像が停まったので、その地の里人と相談してここに社を建てて鎮め奉った との伝承がある (成立時期不明)。 旧社地について、ネットでみた古絵図 (全体図をみると、港内に帆船と蒸気船が停まっているから明治になっての絵図と思われる)には、波止場 (雁木)から少し陸地に入った処に社殿が描かれており、明治の頃の当社が今よりも海に近かったことは確からしいが、絵図で見るかぎり、その距離が如何ほどかははっきりしない。 拝殿は壁がない四方吹き通しの構造で、床には石板が敷つめられ、天井もなく梁等がむきだしという特異な構造となっている。 当社HPには 「昭和3年、建築学者伊東忠太の設計監督により造営されました。 檜造りで屋根は、杉板を敷きつめた柿葺きです。 船庫を模した独特に造りで、壁がなく梁がむき出しの上、天井がないのが特徴です。 この構造に加え、周囲が山に囲まれているため、優れた音響効果をもたらしています。 また、鳴物をお好みになる祭神への崇敬から、音楽の奉納も数多く行われます」 とあり、拝殿と舞殿を兼ねたものという。 現在の本殿は文化10年 (1813・江戸後期)の再建で、国指定の重要文化財」 とある。 HPには「本殿は文化10年の再建で」と簡単に記しているが、美保神社の研究には 「この本殿は、文化10年の建造当時のままを移したものであり、ただ屋根のみ檜皮葺きに替えたにとどまる」 とあり、神門・拝殿と共に昭和3年の遷座にあたって旧態そのままに移されたものという。 装束の間の北西隅に東面して鎮座する客殿に、次の3社が合祀されている ・大后社 (キサイ)--神屋楯比売命 (カミヤタテヒメ)--大国主命の后神で事代主命の母神 (古事記) 沼河比売命 (ヌナカワヒメ)--大国主命の后神で御穂須々美命の母神 (風土記) ・姫子社 (ヒメコ)--媛踏鞴五十鈴媛命 (ヒメタタライススヒメ)--事代主命の御子神で初代神武天皇の正后 (神武紀) 五十鈴依媛命 (イススヨリヒメ)--事代主命の御子神 (ヒメタタライスズヒメの妹)で2代綏靖天皇の皇后 (綏靖紀) ・神使社 (カミツスヒ)--稲背脛命 (イナセハギ)--国譲りで事代主命の意向を聞くため美保崎に赴いた使いの神で、 書紀には、「そこで、熊野の諸手船に使いの稲背脛 (諾否-ダクヒ-を問う足)を乗せて遣わした」とあるが、 古事記には、「天鳥船神 (アメノトリフネ)を遣わした」とある。 これら3社は、末社であるにもかかわらず本殿に祀られているが、資料によれば、元々末社として境内にあったが、元亀元年 (1570)の兵火によって罹災したことから本殿内に遷したという。 (元亀元年の兵火とは、織田信長と浅井朝倉氏との戦いにからむ兵火であろう) *境内北西奥に鎮座する3社合祀殿 境内右奥、一段と高い石垣上に鎮座する小祠で、以下の3社が合祀されている。 ・若宮社 (ワカミヤ)--天日方奇日方命 (アメノヒガタクシヒガタ、 別名-櫛御方命・武日方命等) 古事記 (崇神記)に大物主神の御子 (櫛御方命)、先代旧事本紀には事代主命の御子とある 若宮社には本社・主祭神の御子神を祀るのが普通だが、時には主祭神の分霊あるいは非業の死を遂げた怨霊を祀る場合もある。 この小祠は事代主命の御子神としての祭祀であろう。 ・今宮社 (イマミヤ)--太田政清霊 (オオタマサキヨ) 事代主命の子孫と自称する中世後期の公卿で、当社の特殊神事・青柴垣神事等の創始者というが、 都から落ちてきた公卿というが確証はなく、但馬の豪族・太田氏の流れで、中世末 山名氏に従ってこの地での戦いに破れ憤死した武将ともいわれ、その怨霊を鎮めるために祀られたのではないかともいうが (美保神社の研究・大略)、いずれも伝承であって詳細不詳。 ・秘 社 (ヒシャ)--祭神・勧請由緒等不明 若宮社 (3社合祀) *神門を入った右手、境内北東隅に鎮座する4社合祀殿 石垣上に鎮座する小祠で、以下の4社を合祀する。 ・宮御前社 (ミヤミサキ)--埴山姫命 (ハニヤスヒメ)--土の神 ・宮荒神社 (ミヤコウジン)-奥津彦命 (オクツヒコ)・奥津姫命 (オクツヒメ)--竈の神 (竈荒神) 土之御祖神 (ツチノミオヤ、別名:大土神) --素盞鳴尊の孫 (父:大年神)で土地の守護神 (地荒神) 所謂荒神さんをまつる祠だが、当地一帯には、大蛇を象って作られた藁綱を特定の木に巻き付けて地荒神 (屋敷神・同族神)として祀る風習があり、地主神的な神格を有するという。 ・舩霊社 (フナタマ)--天鳥船神 (アメノトリフネ)--イザナギ・イザナミの御子、 国譲り交渉で武甕槌命の副使として派遣され、美保崎まで事代主命を迎えに行った神で (古事記)、当地一帯の漁師・水産業者から篤い信仰を集めているという。 地蔵崎に建つ美保関灯台奥の崖上に、沖の御前・地の御前の遙拝所があり、鳥居一基が立ち、その左に「神蹟 美保之碕」と刻した石碑が立つ。 出雲風土記の国引きの伝説では、この美保之碕は北陸地方から、日御碕は朝鮮半島から引いてきたものと伝えられています。 この鳥居の中央約4km先の海上に浮かぶ島を『沖之御前』 (灯台が立っている)、眼下に横たわる島を『地之御前』といい、共に事代主神の魚釣りの島として伝えられているところから、現在も美保神社の境内なっており、毎年5月5日には美保神社で事代主神とそのお后と御神霊をこの嶋から迎える神迎神事が続けられています。 この遙拝所は美保神社の古文書に記載のあった古事に基づき、昭和48年12月に設置したものです」 とある。 沖の御前 (写真拡大) 地の御前 美保関灯台 上記・美保碕の由来にいう神迎神事について、当社HPには 「神迎神事 5月5日 島根半島の沖合にある沖の御前島まで船で参向し、神霊を神社本殿内の大后社・姫子社まで船でお迎えする神事です。 神霊をお迎えするためには暗闇でなければならず、港内の家々は明かりを消して、静粛と緊張の中で船が帰還します。 船中では神楽が奏されるため、この神楽の音から、デンシャン祭という通称で呼ばれることがあります」 とあり、美保神社の研究には 「本殿の四の御前 (大后社・姫子社)へ島の神を迎える神事、四の御前迎えとも称し、江戸時代に始まったという」 とある。 この神事で迎える島の神とは、境内末社・沖の御前社の祭神で、事代主命・活玉依姫 (后神)といわれ、神迎神事とは島の神・事代主命が装束の間に坐す母神・御子神などにお会いになる神事とみることができる。 この神迎神事は江戸時代に始まったといわれ、宝暦14年 (1764・江戸中期)藩疔に提出された三穂大明神社帳には 「島神 又御前島沖之御前島とも云 三保湊より凡そ一里の東北海中に在り 社無し 祭礼四月申日 御前迎へと云」 とある (御前とは神様のこと)。 なお、地元には、事代主命が鯛釣りをしていた場所との伝承があるという。 なお、地の御前も末社とされ、祭神は沖の御前社に同じという。 ・客人社--大国主命 合祀・幸魂社--大物主命 (奈良・三輪山の神、大国主の前に「吾は汝の幸魂・奇魂なり」として顕れとある-書紀た) ・天王社--三穂津姫命 ・地主社--御穂須々美命 事代主命とする説もある 美保に坐す神・御穂須々美命 (風土記)を地主神として祀ったものであろう。 一方の事代主命は美保に巡幸する神であり、これを地主神とするには疑問がある。 ・久貝谷社--国津荒魂神 (神格不明)・久邇貝久命 (神格不明) ・客人社--建御名方神 (タケミナカタ、諏訪の神) 合祀・切木社--久々能智神 (ククノチ、イザナギ・イザナミの御子で木の神) ・幸神社--猿田彦神 (邪霊の侵入を遮る塞の神-サイノカミとしての猿田彦であろう) ・糺 社--久延毘古神 (クエヒコ・少彦名の名を顕したカカシの神) ・筑紫社--市来島比売命 (イチキシマヒメ)・湍津姫命 (タギツヒメ)・田心姫命 (タゴリヒメ) (宗像三女神) ・和田津見社--大綿津見神 (オオワタツミ、海神)・豊玉彦神 (オオワタツミの別名ともいう)・豊玉姫神 (オオワタツミの御子神でホオリ命-山幸彦-の后) ・天神社--少彦名命 (スクナヒコナ、神産霊神の御子で、大国主と共に国造りをなした神、医薬の神・酒の神) ・市恵美須社--事代主命 (エビス神としての事代主) ・浜恵美須社--事代主命 (同上) 何れも、その鎮座由緒・時期等は不明。 [付記] 明治23年 (1890)8月から翌年11月まで松江の中学校で英語教師をしていた小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)は、その著・「知られぬ日本の面影」 (1894)の中で、美保関に関して次のような話を記している。 「美保関の神様は卵がお嫌いである。 鶏の卵がお嫌いである。 同様に牝鶏もヒヨコもお嫌いである。 だから美保関には雄鶏も牝鶏もいない。 ヒヨコも卵もない。 美保関に向けて卵は無論のこと鶏の毛一本運ぼうとしようものなら、小舟も帆船も蒸気船も雇うことは出来ない。 それというのは美保関の大神は船乗りたちの守護神であり且つ嵐をしろしめす神だからである。 それだから御野太神の神域へ卵の匂いのあるものを持込む舟には災いあれというものだ。 ・・・ (中略)・・・ 美保神社の大神が何故かくも雄鶏を嫌い給い、その領土から鶏を追い払われたかについては、およそ次のとおりである。 それ以外にも事代主神は夜よく留守にした。 それでも夜明けまでには帰宅せねばならなかった。 当時、雄鶏は事代主神の信頼厚い僕 (シモベ)で、神が帰宅せねばならぬ時刻になると雄々しく時を告げて鳴くのが課せられていた。 ところがある朝、雄鶏はその義務を怠ったのである。 それで事代主神は大急ぎで舟に乗って帰ったが、途中で櫂 (カイ)をなくし、櫂代わりに両手でもって漕がねばならなかった。 そうこうするうちに両手を性悪 (ショウワル)な魚どもに噛まれてしまったのである」 事代主命が鶏が嫌われたかどうかは不明だが、異国人として初めて美保関の地を踏んだ八雲が、鶏・卵が見えないという些細なことから、そのわけを聞きただし、それを珍しい風習として書き記したものだろうが、今、年配者には気にする人が多々あるようだが、若い人は無関心という。

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美保神社(島根・松江市)

美保 神社

読みたい項目からどうぞ• 美保神社とは? 美保神社は、事代主神を祀る総本宮であり、えびす神として商売繁盛の他、漁業や開運、鳴り物の神様として崇敬されている神社です。 美保関に鎮座しており、大社造の社殿は、山陰特有の素朴な勇壮さに満ちています。 美保神社の鳥居 国譲り神話では、父神である大国主神から国譲りの意見を求められ、天照大神の子孫に国を譲るように進言した、と伝えられています。 父神からの使者が来た際、美保関で釣りをしていたとされ、名所美保関とは古代より関連深かった事が伺えるでしょう。 国譲りの相談を受ける様子を儀礼化した諸手船神事、国譲りの返答をした後、青柴垣にお隠れになった様子を儀礼化した青柴垣神事は、今も国譲り神話がいきづいている事を感じ取れる祭事です。 美保神社近くには、古くからの漁村の雰囲気が色濃く残る青石畳通りや、非常に眺めの良い美保灯台周辺など、見て回りたい名所が点在していますので、事前に気になる場所をチェックしてから旅程を組むと良いでしょう。 近年、出雲大社の参拝だけでは「片参り」と言われ、美保神社と対で参拝する人も多いのですが、一日で両方を参拝するには自家用車がなくては不便なので、公共交通機関を使う場合は一泊するつもりでいくと余裕ができ、気になる名所もすべて見て周ることができるでしょう。 美保神社について 美保神社の御祭神・主祭神、代表的なご利益、建てられた年・創建年代をご紹介します。 事代主神• 三穂津姫命 ご利益 ご加護・ご神徳• 五穀豊穣• 海上安全 創建年代• 不詳 美保神社の場所・地図 マップ 美保神社へのアクセス方法・行き方をご紹介します。 電車やバスの場合は時刻表を、車の場合は駐車場をご確認ください。 住所 島根県松江市美保関町美保関608 最寄駅からのアクセス・行き方• 松江駅より畑バス美保関ターミナル行きに乗車して約40分です。 駐車場• ありません 美保神社へ辿る道 美保神社の参考動画 美保神社の参拝情報 美保神社の参拝に役立つ情報をご紹介します。 参拝時間や参拝料、参拝にかかる所要時間など参考にしてください。 参拝日・参拝時間• 24時間参拝可能です 休日・休み 定休日• 休みはありません 拝観料 入場料・料金• 拝観料はありません 所要時間• 30分~1時間 御朱印• 御朱印はあります 初詣 初詣ではたくさんの人で賑わいます。 時間に余裕をもって参拝するようにしましょう。 初詣のときのお参りの仕方・参り方についてはの説明をご覧ください。 美保神社の関連情報 美保神社についての関連情報をご紹介します。 もっと美保神社について詳しく知りたい方はご覧ください。 関連サイト• 島根の神社・神宮 美保神社のほかに島根の神社を参拝されるのでしたら、がオススメです。

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