鎌倉 時代 食事。 室町時代の食事を紹介!お米は?調理法は?庶民と貴族で違うの?|終活ねっと

鎌倉時代の武士は何を食べてたの?当時の食べ物を紹介

鎌倉 時代 食事

狩猟時代 [ ] のからハナイズミモリウシ(野牛)、原牛、、、ナツメジカ、、などのが大量にまとまって発見され、これらの骨には解体痕があり、またと、敲石と思われる使用痕のあるも発見された。 これらから花泉遺跡はによる動物を解体しを得たキルサイトと考えられている。 またの立ヶ鼻遺跡も、ナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。 の野川遺跡などからは礫群や配石(置石)が発見されている。 礫群は焼けたこぶし大の石が数十から百個ほど1か所にまとまったもので、動物質の有機物が付着したものも発見されている。 礫群は食肉をのに用いたと考えられている。 当時はので、の大部分は性のが広がっていた。 性のは乏しくは未発達なため、ビッグゲームと呼ばれる大型の狩猟を主とした食肉に依存する生活と考えられている。 採集時代 [ ] のやからは動物の骨も数多く発掘されている。 その9割は()、()の肉で、その他に、、、、、、、など60種以上の哺乳動物が食べられていたものと見られる。 その調理法は焼く、あぶる、煮るなどであり、焼けた動物の骨も見つかっている。 また、動物の臓器を食べることで塩や、などを摂取していた。 、のから、、、、などが食されたことが分かっている。 農耕時代 [ ] 続くにも、狩猟による猪、鹿が多く食べられ、その他、、なども食べられている。 農耕時代になると、動物の臓器が食べられることは少なくなり、塩分は海水から取られるようになった。 縄文時代の遺跡では狩猟獣であるシカ・イノシシがほぼ一対一の比率で出土するのに対し、弥生時代の遺跡では「イノシシ」が増加する。 これはにより形質的特徴から大陸から導入されたとしてのが混入していたことが指摘され、「弥生ブタ」と称されている。 弥生時代の社会は家畜の利用を欠いた「欠畜農耕」と考えられていたが、1980年代終盤から「ブタ」や「」の出土事例が相次いでおり、家畜の利用が行われていたと考えられている (「弥生豚」 )。 文献資料では『』(3世紀)には、日本にはがいなかったことが明記されている。 ただし「近親者の死後10日ほどは肉を食べない」ともかかれており、肉食は行われていた。 では動物全般を「禽獣魚虫」で表すが(「禽」は「鳥」の意味)、日本の古語では鴨などの禽肉を単に「トリ」、獣肉を「シシ」、魚肉を「ウヲ」 と呼び、「猪(イ)」の肉を「イノシシ」、「鹿(カ)」の肉を「カノシシ」、また肉だけでなく生体も同じくそのまま呼んだ(このため「禽獣」を「トリシシ」とも読む)。 「」の「しし」は肉ではなく獣のことである。 後に漢語の由来の「ニク」に代わり、「肉」のの「宍」で宍肉(ししにく)、人名での「シシ」などに語が残っている。 なお「」はここでの「シシ」とは訓みが偶然一致しているだけで関係はない。 獣肉は一度に大量に確保できるが、生肉の保存技術が無く、生贄はその場で屠殺して食べられた。 肉は一般には加熱(直火、煮炊き)して食べられたが、では火を使うことは不浄とされ、基本は生肉、あるいは、などを使った(鱠)、で食した。 『日本書紀』の2年の条には「置宍人部 降問群臣 群臣黙然 理且難対 今貢未晩 我為初 膳臣長野 能作 宍膾 」と宍人部(食肉に携わる職の家系)の起源伝承が述べられており、を宍(ししなます)にして食べられた旨が書かれている。 には薬猟の名で、鹿や猪の狩が年に数回行われ、その肉がの薬として食べられていた。 また、古墳時代には大陸から牛と馬が渡来する。 馬は主にとして用いられたが、牛馬は肉や内臓が食用あるいは薬用にも使われた。 猪豚は飼育も行われており、『』11年(西暦不明)の条には猪使連という専門職が登場する。 16年(555年)には「使于吉備五郡 置白猪屯倉 」とに白猪屯倉を置くよう命じられており、569年には功あった白猪田部に白猪史のが贈られている。 狩猟をたびたび禁じた天武天皇 にはやが入り、誰もが食して旨いと知っているもののたとえから、誰もが知っていることを「膾炙」(原義は「なます」と「焙った肉」)という言葉もあるほどだったが、仏教では動物の殺生が禁じられていることから、この影響で肉食もたびたび禁じられるようになった。 になると、貴族食と庶民食が分離するようになった。 『日本書紀』によると、は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じた。 また、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された。 しかし、以前より一般的な習慣として食べられていた鹿と猪は獣肉であっても禁じられなかった。 引き続き猪豚の飼育も行われており、が708年に詠んだ歌には「降る雪はあはにな降りその猪養の岡の寒からまくに」とある(猪養は地名でもある)。 また、(養老2年)に亡くなったは筑後守時代に国人に鶏や豚の飼育を奨励しており、『続日本紀』には「下及鶏肫。 皆有章程。 曲盡事宜」(〈道首名の規則は〉鶏や豚の飼育にも及んでおり、ことごとく詳細で適切であった)と記されている。 『続日本紀』(天平4年)7月6日には聖武天皇が「和買畿内百姓私畜猪四十頭。 放於山野令遂性命(畿内の百姓から家畜の猪40頭を買って山に逃がした)」との記載もある。 だが、罠や狩猟方法に関して禁令がたびたび出され、正月の宮中行事である御薬を供ずる儀でも、獣肉の代わりに鶏肉が供されるようになった。 さらにこの頃から貴族の間でや乳製品の摂取が盛んになり、動物性タンパクが補われるようになった。 奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していたの官吏や貴族を牽制するためとする説もあり、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものである可能性もある。 奈良時代には前時代から食されていた動物に加えても食されたが、臭気が強いためにこの他の時代ではあまり例がない。 また、酢を使って鹿の内臓をにすることも始められた。 一方で、庶民には仏教がまだまだ浸透せず、禁令の意味も理解されずに肉食は続けられた。 にも貴族の間での食肉の禁忌は続いた。 (延喜14年)に出された漢学者の『』には、悪僧が腥膻(肉と肝)を食うのを評して「形は沙門に似て、心は屠児の如し」とかかれており、食肉の禁忌があったこと、および一部ではそれを僧でさえ破っていたこと、獣肉を処理する屠児という職業がありそれが差別される存在であったことなどを示している。 (承平5年)に編纂された辞書『』人倫部第六 漁猟類第二十一 では、屠児の和名を「えとり」とし、意味は「鷹雞用の餌を取る者」転じて「牛馬を屠って肉を売る者」という意味だと解説しており、獣肉を売る商売があったことが分かる。 また『和名類聚抄』には猪、ウサギ、豚などが食されたことも記載されており、これらはの日の食膳に出された。 平安時代にはが盛んになったこともあり、獣肉食の禁忌は強まり、代わって鳥や魚肉が食されるようになった。 これが魚肉の値上がりの原因になり、に記載された米と鰹節との交換比率は、200年前の大宝令の時と比べて2 - 3倍に上がっている。 延喜式には獣肉の記載がほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料に関する記載が現れる。 乳製品もさらに多く摂られるようになっている。 平安末期になるとに食肉を供えるはずの行事でも代わりに餅や乾燥などが用いられるようになったり、正月のの膳でも鹿の代わりに、猪の代わりにキジが出されるようになった。 また、穢れを信じるあまりに馬肉は有毒とまで考えられ、『』の(長和5年)の条には犯罪を犯した男に馬肉を食べさせた旨が記されている。 当時の医学書『』にしし肉(獣肉)と魚肉の食い合わせが良くないと記されていたり、『』には庶民がしし肉を買いに行く場面が出てきたりと、完全に食肉の習慣が無くなったわけではなかった。 平安時代のには古代のこととして「大地主神、田を営るの日、牛の宍を田人に食はせ」とあり、御歳神に対する神事として農民に牛肉を食わせたことが書かれている。 ただし古語拾遺内の創作であるとする可能性も指摘されている 武士の時代 [ ] 鹿を仕留めるを描いた『貞観殿月』(「月百姿」) になると、が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まった。 武士は狩で得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べた。 鎌倉時代の当初は公卿は禁忌を続けており、『』の(嘉禎2年)の条には武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせる場面が出てくる。 しかし時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになり、『』の(安貞元年)の条には公卿が兎やイノシシを食べたとの噂話が載せられている。 乳製品は以後明治までほぼ食べられなくなった。 12世紀後半の『粉河寺縁起絵巻』には、肉をほおばり、干肉を作る猟師の家族が描かれている。 一方で神社の物忌み期間中の獣食は厳しくなり、平安時代には禁止されていなかった鹿や猪肉までもが禁令に含まれ、その期間も数十日程度にまで長くなっている。 当時はが流行し、が勃興しつつあった。 は自身の肉食は忌避してはいたものの、肉食をしてもを唱えれば救われると説いた。 法然の弟子のは「肉食妻帯」伝説で知られ、『口伝鈔』よると、幼少期のの前で僧の象徴であるを着たまま魚を食べたと記されている。 は自身が肉食した記録は乏しいが 、「」を唱えた。 対しての影響で、動物性の材料を一切用いないも発達した。 精進料理は単なる植物食ではなく、「猪羹」など獣食に見立てた料理もあった。 の『』には、珍味として、、などの獣掌や、(脂肪付きのイノシシの皮)を焼いたものなどが掲載されており、『』には武士がイノシシ、シカ、カモシカ、クマ、ウサギ、タヌキ、カワウソなどを食べていたことが記されている。 医学も進歩して『』には2月のウサギ、9月の猪肉を食べないように記載されている。 僧侶もひそかに肉食をするようになり、特にウサギは鳥と同様の扱いになって、『』の(南朝:正平16年、北朝:康安元年)の饗宴記録にもウサギ肉について記載されている。 が登場する「」が成立したのは後期といわれるが、その時代の料理書「」にはタヌキを蒸し焼きにした後に鍋で煮る「むじな汁」のレシピが記されている。 当時の評価では同じく肉食対象だったと比較して、タヌキ料理は不味かったという。 戦国時代・安土桃山時代 [ ] 南蛮貿易 になると、などを通じた食品の輸入が本格化した。 この時代には新大陸()の食材ももたらされている。 ()の『』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。 牛乳も飲まない。 猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれている。 宣教師の『』には「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。 日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」 「ヨーロッパ人は犬は食べないで、牛を食べる。 日本人は牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」と書かれている。 宣教師は日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかったが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧め、(弘治3年)のでは買った牝牛を殺して飯に炊き込んで信者に振舞っている。 『』には、キリシタン大名のがの際、やに牛肉料理を振る舞ったことが書かれている。 の養子は医学書『』の中で、獣肉を羹(具がメインのスープ)、煮物、膾、干し肉として食すればさまざまな病気を治すと解説している。 ただし当時の医学書には中国文献の引き写しも多く、日本では手に入らない食材なども書かれており、実際に行われていたかどうかは明らかではない。 また、戦国時代末期の日本語を収録した『』には「Cacho ブタ」と記されており 、地方によっては豚(家猪)が飼われていたものと見られる。 また、戦国末期からはなどでが始まっている。 阿波のの拠点の館跡地では、牛馬に豚や鶏、鯨、犬や猫などの骨が数多く出土しており、食用だけでなく鷹の餌や、愛玩用として家畜が飼われ、肉が市場に流通していたと考えられている。 徳島県教育委員会は、当時の食事を研究し、が京都で将軍を歓待した時のを再現した。 その時の材料には、や、、が使用された。 ただし京などで獣肉が一般的に食されていたとは言えず、例えば秀吉がをに招いた際の献立にも入れられていない。 特に牛馬の肉を食べることは当然の禁忌であり、(天正15年)、秀吉は宣教師に対して「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問し、それに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」と弁明をしている。 江戸時代 [ ] を描いた『古式蒔絵』 には建前としては獣肉食の禁忌が守られた。 特に上流階級はこの禁忌を守った。 例えば狸汁は戦国時代には狸を使っていたが、江戸時代にはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに変わっている。 (慶長18年)、に商館を開設したイギリスのは陸路で大阪 osaca から駿河 Surunga に向かう行程で書かれたとみられる日本人の食習慣に関する記述の中で、豚が多く飼育されていることに言及している。 (寛永20年)の刊行とされる『』には、鹿、狸、猪、兎、川獺、熊、犬を具とした汁料理や貝焼き、料理等が紹介されている。 (寛文9年)に刊行された料理書『』にも獣肉料理が登場する。 (貞享3年)に刊行された山城国の地理書『雍州府志』には、京都市中に獣肉店があったことが記されている。 江戸後期の国学者は、著書『』の中で、元禄前の・の頃には江戸四ツ谷に獣市が立ったことを述べている。 (享保3年)には獣肉料理の専門店「豊田屋」が江戸の両国で開業している。 獣肉食の禁忌のピークは、などが施された17世紀後半のである。 この法令自体はの治世に限られ、影響も一時のもので終った。 ただし特に犬を保護したことについての影響は後世まで残り、やで犬肉が一般的な食材になっている一方で、日本では現代に至るまで犬肉は一般的な食材と看做されなくなった。 18世紀の書『』第37「畜類」の冒頭豕(ぶた)の条では育てやすい豚が長崎や江戸で飼育されていることが述べられているが、大坂在住の著者は「本朝肉食を好ま」ないため、近年は稀だとする。 更に、豚肉を食べた際に生じる影響や豚肉と食べ合わせが悪いとされる食べ物などについても述べられている。 また、同じように、豚肉について記したものとしては(元禄八年 に刊行された人見必大の『本朝食鑑』があり、豚肉の効能・害について 、または、江戸時代当時の豚の飼育状況についてが書かれている。 そして、『』牛の条の注には、日用としては駄目だが禁止する必要はないとも書かれている。 (享保18年)に伊達家のが書いた『』には牛肉を粕漬けあるいは本汁として使うことができるが、食後150日は穢れる旨が書かれている。 は毎年の寒中に赤斑牛の味噌漬けを将軍と御三家に献上している。 本居宣長は古代の肉食について研究した 18世紀には、なぜ獣肉食が駄目なのか、獣肉食の歴史はどのようなものだったかについての研究も行われた。 儒者は没後の(宝永6年)に刊行された著書『集義外書』の中で、牛肉を食べてはいけないのは神を穢すからではなく、農耕に支障が出るから、鹿が駄目なのはこれを許せば牛に及ぶからなのだ、との見解を示している。 は儒者の立場から、没後の(正徳5年)に刊行された『和漢太平広記』の中で、に食肉を供えるはずの行事で肉を供えないのでは儒礼とは言えないとの見解を示している。 は(享保16年)、著書『』の中で、日本書紀や続日本紀の中に肉食が行われていた記録があることに言及した。 も(寛政10年)に完成した『』の中で、古代の日本人が肉食をしていたことに言及している。 江戸中期になるとも獣肉食に影響した。 に描かれた江戸の比丘尼橋(現)付近にあった猪肉店 のの著『』には猪肉を山鯨、鹿肉を紅葉と、そのほか熊、狼、狸、イタチ、キネズミ(リス)、サルなどの肉が売られたことが記されている。 (文政12年)完成の地理書『』には麹町やに「けだ物店」があった旨が書かれている。 19世紀のの著『』にも、大名行列が麹町平河町にあった(獣肉店)の前を通るのを嫌がったことが記されている。 ここでは猪、鹿、狐、兎、カワウソ、オオカミ、クマ、カモシカなどが供されていた。 (文政10年)に出版されたの『経済要録』に「豕(豚)は近来、世上に頗る多し。 薩州侯の邸中に養ふその白毛豕は、殊に上品なり」と書かれているように、豚の飼育も行われていた。 佐藤はこの著作で畜産の振興と食用家畜の普及を提言しているが、牛馬に関しては全く食用の可能性に言及していない。 によれば、福澤諭吉がで学んだ江戸末期の(安政4年)、大阪に2軒しかない牛鍋屋は、定客がゴロツキと適塾の書生ばかりの「最下等の店」だったという。 (文久3年)にらが遣欧使節団としてフランスに派遣された際も、一行は肉食はもちろん、パンも牛乳も日ごとに喉を通らなくなっていったとの記録がある。 (明治41年)に刊行された『明治事物起原』によると、1860年代に横浜の居酒屋「伊勢熊」が外国商館から臓物を安く仕入れて串に刺し、味噌や醤油で煮込んで売り出し、繁盛したという。 江戸時代には日朝間の外交使節としてが派遣されるが、江戸幕府は外交的配慮から通信使に対して道中はイノシシ肉でもてなすものの、江戸城の正餐では儀式的な料理で魚貝・鳥類を除き獣肉が使われないが出された。 ただし、本膳料理は見ることを主眼とした料理で実際に食される部分は少なく、実際に食する膳として別に引替膳が出された。 一方、朝鮮半島南端の釜山には日朝間の外交・交易を限定的に行う管理のが設置されていた。 倭館では朝鮮側から饗応料理として朝鮮式膳部が振る舞われ、膳部には牛肉などの食肉が用いられている。 また、期にはやにも本膳料理を出していた。 ただし江戸最末期のにはとの会食で西洋料理を供している。 明治時代から太平洋戦争前まで [ ] 時代になると、を食べることがの象徴と考えられ、牛肉を使ったが流行した。 当時の牛鍋屋はの『』 1871 の舞台ともなっている。 明治新政府は発足当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に展開した。 明治2年 1869 にに半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始した。 翌、明治3年 1870 にはが執筆したパンフレット『肉食之説』 を刊行、配布している。 には「近頃のはやりもの」として牛肉、などが挙げられている。 食肉業者が増えたことにより、(明治4年)には「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省達が出されている。 同年には翌日の外国人を招いた晩餐会で、西洋料理を出している。 ただしが初めて牛肉を食したのは(明治5年)である。 同年、によりをさせるため「肉食妻帯勝手なるべし」とされた。 明治初頭にはもっぱら和食の食材として用いられ、関東では味噌味などの牛鍋として、関西では炒めて鋤焼と称して食べられた。 生に酢味噌を付けて食べることも行われた。 牛肉の質は兵庫県産が最上とされ、ついで会津、栗原、津軽、出雲、信州、甲州などが優秀とされた。 ただし獣肉食を穢れとする考えは強く、これを迷信として打破するために『』、『文明開化』といった著作や、敦賀県からは牛肉を穢れとする考えを「却って開化の妨碍をなす」とする通達が出されている。 (明治39年)にはを防ぐためにが制定された。 明治初年には抵抗も強かった。 血抜きの技術が不完全で煮炊きすると臭かったため、庶民が単純に敬遠するということもあったらしい。 『武士の娘』を書いたは牛肉を庭で煮炊きをしたところ、祖母はに紙で目張りをして食事にも姿を見せなかったという。 一方、正当な理由のある反対としては(明治2年)、豊後の清原来助がに農耕牛保護のために牛肉の売買禁止を訴えている。 天皇が食してしばらく後の(明治5年)、御岳行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生し、後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の居場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」との動機が供述されている。 (明治6年)の『』には「豚肉は健康に良くないので食べないよう」との投書が掲載された。 (明治10年)の『』には「洋食洋医を宮中より斥けよ」との記事が掲載された。 (明治13年)の『』は、牛肉食で耕牛が減少したため、食糧生産が大幅に減少した、と報じている。 (明治17年)、医務局長のは、当時大きな問題であったの原因が「窒素と炭素の比例不良」(の不足)にあると考え、脚気対策としての兵食を西洋式に改めることを上申した。 しかし、兵員の多くがと肉を嫌って食べなかったため、海軍では(明治18年)からも支給されることとなった ()。 また、においても日常で食される兵食やに肉食・洋食が多く取り入れられ、当時の「戦時陸軍給与規則」では1日の基準の肉・魚は150gであった()。 当時は白米飯(精白米6合)からに切り替わった。 (明治43年)制定の陸軍公式集『』(「明治43年陸普3134号」)には、肉をメインとする洋食レシピとして(ビーフ・ポーク)、、メンチビーフ、・ドライド、、、、、、燻製豚肉、牛肉の、肉スープ、などが掲載されている。 また、大正末にはパン食も組織的に取り入れられ (「大正9年陸普第2529号」)、その副食に最適なものとしてカレー・シチウ(シチュー)・貝と野菜汁(クラムチャウダー)が挙げられ、また・・・も嘗物として導入されている()。 明治期の上野精養軒 政府は役人に対し、外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食を奨励した。 例えば海軍はで食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対して注意されることもあったという。 また、遅くとも(明治10年)までには宮中の正式料理は西洋料理となった。 この頃には東京の牛肉屋は558軒にまでなっている。 (明治19年)のには、高木兼寛が洋食を嫌う日本女性相手に毎月3回の洋食会を開くことを決めた旨が掲載されている。 山間部では牛肉食は広まらなかったが、元々獣肉食に対する嫌悪感は少なく、(明治6年)に刊行された飛騨地方の地誌『』にはシカ、イノシシ、カモシカ、クマなどが食べられていた旨書かれている。 ただしその総量は鳥類を合わせても魚類の6分の1程度であった。 明治中期になると、家庭でも西洋料理が作られるようになった。 (明治28年)の『』には「この牛の煮たのは変なにおいがするね」「ネギが臭くてたまりませんから、香水をふりっけましたっけ」との新婚家庭の笑い話が掲載されている。 (明治36年)の『』には主人による「牛肉の蒲鉾」などの料理が掲載されている。 また(明治37年)の『』にはアメリカで料理を学んだこともあるが「和洋折衷料理」として濃い目の味噌汁にカレー粉と牛肉を入れた「カレーの味噌汁」などを紹介している。 また、ジャーナリストのは(明治36年)から報知新聞に料理小説『』を連載し、そこで西洋料理の紹介もして、後に書籍となって大ベストセラーになった。 創業100年以上の料理の(・大門付近) また(明治37年)から始まった日露戦争のため、戦場食糧として牛肉の缶詰や乾燥牛肉が考案され、軍隊で牛肉の味を覚えた庶民が増えた。 日本では戦争のため牛肉が不足し、豚肉が脚光を浴びることになり、(明治16年)には年間消費量1人4グラムであったところ、(大正15年)には500グラム以上にまでなった。 (大正10年)には富岡商会が冷蔵庫を設置して年間を通してのの製造を始めている。 (大正12年)の後にはの輸入が急増し、輸入品としては格安だったために急速に普及した。 大正期にはが登場し、大正期の三大洋食がカレー・とんかつ・コロッケ(またはオムレツ)とまで言われるようになった。 ただしこれはあくまで揚げ物ではなくカツレツであり、今の形に近いとんかつは昭和に入った(昭和6年)の上野の「ぽんた」あるいは(昭和7年)の上野の「楽天」が最初期のものとする説もある。 とんかつは主に豚の質がよく牛の質の悪い関東で広まった。 日本人の動物性タンパク源は依然として魚肉が中心であったが、獣肉食に対する禁忌の感情はほぼ無くなった。 中国料理、朝鮮料理の普及 [ ] 中国人が獣肉を食べていることは江戸時代から知られており「遣唐使少しは牛も喰ひならい」「 日本の牛は畳のうへで死に」といった川柳も作られていた。 長崎のは江戸や上方でも流行したが、これらの紹介の書には、中国人は鹿豕を食べることに言及しつつ、取捨選択が可能であることを断る記述が見られる。 明治になって開国すると、長崎に加えて横浜や神戸に中華街 南京町 が形成されたが、「支那うどん」「支那 南京 そば」と呼ばれたやを除けば日本人の間に中国料理は広まらず、(明治39年)時点で東京にあった店はわずか2軒であった。 いずれも貿易商や高級役人が利用する高級料理店であった。 もっとも(明治39年)には東京のが毎週中国料理店から料理人を招いて中国語での料理講習会を行っている。 明治期に刊行された西洋料理書が約130冊であるのに対し、中国料理書はわずか7冊であったが、明治末年には肉料理も紹介されるようになった。 大正時代になって日本の大陸進出が進むと、中国からも民間人がやってきて一般向けの中華料理店が開かれることになった。 中国料理は豚肉の普及と共に家庭料理にも取り入れられた。 (大正9年)頃からは新聞でも中国料理の紹介記事が増えた。 (大正14年)から始まったでもなどが時々紹介された。 朝鮮料理の普及はこれよりもやや遅く、が(明治38年)に上野に韓山楼という店を開いているが、客のほとんどは朝鮮人であり、李が朝鮮に帰国するまでの短期間のものであった。 後には日本に来る朝鮮人が増加し、(昭和13年)のには朝鮮料理店が37軒できていた。 そこで出されたのは戦後のを中心とするものではなく、韓定食などの伝統朝鮮料理であった。 内臓食 [ ] 肉だけでなく、内臓も食されていた。 内臓の量は精肉の6分の1程度で発生量は多くは無かった。 ただし、保存性が低く、また、食品化するに際して下処理が必要でそれに伴う廃棄率も高いため 、屠畜の段階から精肉とは流通経路が異なる。 明治期の神戸の牛屠畜従事者の回顧によれば、屠畜場に残された内臓肉は彼らの重要な副収入源であったとしており、また、(明治39年)の神戸新聞には屠畜場周辺地域において、粗末な大鍋で切り刻んだ臓物を煮込んだものが一皿1銭で出されており、その新聞記者にとっては店の前を通っただけで異臭がするものであったが、夕方からは千客万来であったと報告されている。 やがて内臓肉も専門業者を通して流通するようになり、都市部では屠畜場周辺以外にも低価格の肉料理として広がりはじめるが、内臓食は決して一般的ではなかった。 1920年代には一時的にだが「精力が増進する料理」という意味の「」の店ができ、卵、納豆、山芋などと並んで動物の内臓を出す店ができた。 1930年代になると、一般向けにも広まった。 例えば大阪の店「北極星」を営む北橋茂男は(昭和11年)頃に牛の内臓をフランス風の洋食「ホルモン料理」として提供し、(昭和12年)には「北ホルモン」の名で商標登録を出願している。 また、『料理の友』には(昭和11年)から年1度のペースで内臓料理が「ホルモン料理」として特集された。 (昭和15年)2月号では牛や鶏の内臓のバター焼きなどの調理法が掲載されている。 また、(昭和11年)には主催で「ホルモン・ビタミン展覧会」として講演や料理実演が行われている。 また、1920年代には東京で豚の内臓を串に刺してタレで焼いた「」が売られ出し、1940年頃には労働大衆の食として人気を博した。 太平洋戦争中と占領期 [ ] が始まる頃から、では徐々に食料の欠乏が始まった。 そのため、特に下層階級が経済的理由で内臓料理を食べることが多くなった。 例えば第2次大戦中および占領期の北海道のでは、鉱夫がという証言がある。 一方、(大和民族の話ではないが)(昭和17年)に発表されたの小説『親方コプセ』の中で、朝鮮人が密造酒を飲みながら臓物を食べる様子が描写されている。 また、普通なら捨てるか肥料にするはずの臓物を、朝鮮女工が貰い受けて煮て食べるということもあった。 (昭和16年)10月には農林省告示第783号「牛及豚ノ内臓等ノ最高販売価格」が出されているが、佐々木道雄はこの内容は当時すでに牛や豚の内臓が食用として流通・販売されていたことを反映しているとしている。 一方で占領期の都会では、降伏直後から(昭和24年)ごろまであったなどで犬や猫などを含む様々な獣肉が売られることもあった。 例えば焼いた動物の臓物が「焼き鳥」として売られていた(ただし「牛豚の臓物の焼き鳥」自体は大正時代から存在する)。 (昭和21年)の『朝日新聞』には東京で野犬、畜犬を区別なく捕まえてその肉を闇市で売りさばき、3万円余を荒稼ぎした男が逮捕される記事が掲載されている。 在日韓国人の金文善は著書『放浪伝』の中で、大阪の闇市で臓物を出汁と具にした「びっくりうどん」が売られて日本人に食べられているのを目撃したが、そのあまりの不潔ぶりに在日韓国人として臓物を食べなれている金でさえ食べられなかったと語っている。 現代 [ ] 太平洋戦争後も、日本人の動物性タンパク源は魚肉が中心であった。 食肉も(昭和21年)からのの対象となったが、(昭和24年)には供給が需要に追いついていち早く対象から外されている。 戦後食糧事情が悪化した(昭和21年)から(昭和22年)ごろ、主代用食として、アメリカ陸軍のであった缶詰のが配給された。 これ以外にも、米軍からの放出物資、あるいはその名を借りた盗品売買により、ランチョンミートは高価ではあったが食糧として一時的に普及した。 (昭和21年)末からが再開され、(昭和25年)からはの援助により一部で完全給食(栄養価が考えられたおかず付きの給食)が実施され、からは有償給食となって、肉食も提供されるようになった。 また、(昭和26年)に、(昭和32年)頃にが登場して、安価な食材を使っての食事の洋食化が進んだ。 (昭和35年)には牛の佃煮の缶詰として売られていたもののほとんどが馬肉や鯨肉であることが判明した「」が発生して大きな社会問題となっている。 1960~70年代のからは食肉の需要が急増し、(昭和50年)にはソーセージの材料として魚肉を逆転し、(昭和63年)には実質供給タンパク質量で魚肉を逆転した。 内臓食も、昭和30年代以降は家庭料理として定着しはじめ、食肉生産の増大に伴って畜産副生物の流通も1975年頃には牛で(昭和30年)の2倍、豚で10倍に近い水準に達した。 (平成4年)のブームをきっかけに、家庭用食材として需要が定着した。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 誤解が多いが、「ウヲ」はではなくであり、古語由来の純粋な日本語である。 後述するように、タンパクの摂食が獣肉から魚肉に代わり、酒宴で饗されることが多くなって「サカナ(酒菜、肴)」は魚肉のことと一般化され、やがて生体も「サカナ」と呼ぶ慣習が生まれた。 『和漢三才図会』に「その上、豚と猪はともに小毒があって人には益がない。 それなのに華人や朝鮮人は鶏・豚を常食としている。 ……豚肉は傷寒 外邪の侵入によっておこる重い熱病 、擢痢 おこりからくる下痢 、疾病 慢性の目指息 、痔漏などの疾あるものがこれを食えば、必ず再発する。 烏梅 黒くいぶした梅 、桔梗、黄連 薬草名 、胡黄連とは反発し、これらと一緒に食べれば潟痢をおこす。 生董と一緒に食べれば面点を生じる。 蕎麦と一緒に食べれば毛髪が抜けるとされる」とある。 『本朝食鑑』では「「本草別録」に、猪肉は能く血肱を閉じ、筋骨を弱くし、人肌を虚にするので、久しく食べてはいけない。 病人・金療の者は尤も甚だしい、といっている。 然ども、今俗でこれを金癒の薬としているのとは反説であるようにみえる。 後来の試験を待って明らかにすべきことである。 ……人を肥満にし、小児の府渇を療す。 その他は「本草綱目」に詳しい」と記述している。 『本朝食鑑』に「豚は各処で畜っている。 大抵は溝渠の械を厭うて、そのために畜っているのである。 豚は能く溝渠・庖厨の穣汁を喜んで食べ、日毎に肥胞る。 食物も至って寡なく、畜いやすい。 あるいは豚を殺して獒犬 猛犬 を養ったりする。 獒犬は猟を善くし、公家に毎に厩養されている」とあり、当時の豚の利用法は、ゴミ処理のため、あるいは猟犬の餌のために飼われていたとされる。 福澤は、豚を買い出しては来たが屠殺できない難波橋の牛鍋屋の親爺の求めで豚を溺死させ、報酬に得た豚の頭を解剖したあと煮て食べたことも書いている。 出典 [ ]• 『日本の食文化史』 [ ]• 『日本の歴史1 日本史誕生』 [ ]• 編『人と動物の日本史1 動物の考古学』 [ ]• 『旧石器時代人の歴史 アフリカから日本列島へ』 [ ]• 「日本人と食肉」、平成11年3月、日本食肉消費総合センター• 中山太郎「歴史と民族、生活と民族、信仰と民族」、平成11年 初出は1941年から1943年 、パルトス社• 平林章仁「神々と肉食の古代史」、2007年、吉川弘文館、• 天武天皇四年四月庚寅(675年5月16日)。 詔諸國曰。 自今以後。 制諸漁獵者。 莫造檻穽及施機槍等之類。 亦四月朔以後。 九月卅日以前。 莫置比滿沙伎理梁。 且莫食牛馬犬猿鶏之宍。 以外不在禁例。 若有犯者罪之。 「日本人と食肉」、平成11年3月、日本食肉消費総合センター• 平林章仁「神々と肉食の古代史」、2007年、吉川弘文館、• 「食肉文化 さばく・あきなう・たべる」、1996年10月17日、大坂人権博物館、ISBNなし [ ]• 吉田宗男、「」『印度學佛教學研究』 47巻 1号 p. 213-215, 1998年, :• 目黒きよ、「」『印度學佛教學研究』 37巻 1号 p. 317-319, 1988年, :• 鈴木晋一 『たべもの噺』 平凡社、1986年、pp33-35• 第二版第三巻、(平成13年)、小学館、 [ ]• - 徳島新聞 2011年6月18日• - 2011年12月21日• , 1613 1900 、p. 127. ただしこの記録にはヤギが飼われていたとも書かれており、(明治33年)に校訂したはヤギについては「勘違いではないか」としている。 明治以前に在来種のヤギが飼育されていたことが知られているのは、日本本土では長崎県沿岸部やだけである。 第3代藩主の頃、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。 これは近江牛が名産となるはしりとなった。 国宝彦根城築城400年祭「列伝 井伊家十四代 第8回」• 近代デジタルライブラリー。 江戸の薩摩藩邸で豚が解体・消費されていたことは、ゴミ穴跡地から17世紀から19世紀に及ぶ大量の豚の骨が発掘されたことで裏付けられている。 山根洋子「コラム 江戸薩摩藩邸のブタ」『歴博』115号 (平成13年))• 大坪藤代・秋山照子「朝鮮通信使饗応食(第2報) 七五三本膳料理と引替」『全集 日本の食文化7 日本料理の発展』雄山閣、1998年 [ ]• 田代和生『和館 鎖国時代の日本人町』文藝春秋、2002年 [ ]• 田代和生『和館 鎖国時代の日本人町』文藝春秋、2002年 [ ]• 鈴木晋一 『たべもの史話』 小学館ライブラリー、1999年、p. 205. 福田育弘『「飲食」というレッスン: フランスと日本の食卓から』三修社 2007年 p. [ ]• 麦飯支給により、海軍の脚気患者は激減した。 ただし海軍の航海食は、脚気を予防するには麦の割合が低く、副食も不足を補えなかったこともあり、後年、脚気患者が増加し、12月にが勃発した(昭和16年)には3,079人の患者が出た)。 山下(2008)。 山下政三『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年、116-117頁。 陸軍省副官 『軍隊料理法』明治43年、 ID. 000000486561• [芳賀:1999]• 、 西澤治彦「江戸時代の中国料理書の翻刻と解題(その一)『卓子宴儀』」『武蔵大学人文学会雑誌』第37巻第2号 2006年 など [ ]• 南廣子・舟橋由美 2003 『名古屋女子大学紀要』49(家・自)pp69-80• [ ] 商標第334852号• 岡山県畜産協会• 倉持弘の民法教室• 社団法人日本畜産副産物協会 参考文献 [ ]• 渡辺実『日本食生活史』吉川弘文館、2007年(1964年初版の本の再版)、• 原田信男『歴史の中の米と肉』平凡社、1993年(参照したのは1996年の第5刷)、• 原田信男『和食と日本文化』小学館、2005年、• 平野雅章『和食の履歴書』淡交社、1997年、• 芳賀登ら監修『全集 日本の食文化 第2巻食生活と食物史』雄山閣出版、1999年、• 日本食糧新聞社『昭和と日本人の胃袋』日本食糧新聞社、1990年、ISBNなし• 高木和男『食から見た日本史(現代編)』芽ばえ社、1991年、• 岡田哲『とんかつの誕生』、2000年、講談社、• 『日本焼肉物語』太田出版、1999年、 のち一部加筆の上光文社、知恵の森文庫、2005年10月• 佐々木道雄『焼肉の文化史』明石書店、2004年、• 山下政三『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年、35-39頁、440-446頁。 『にっぽん台所文化史 増補』雄山閣出版、1998年増補1版、 関連項目 [ ]• 鹿肉・• 豚肉料理・山羊料理• 食用に取られた動物の内臓• 「赤もつ」の一種• 鳥類の内臓で俗にいう「鳥レバー(鳥もつ)」のこと、「砂肝」「砂ずり」の別名も• 煮込んだもつ• 江戸時代の獣肉店• 馬肉鍋(秋田県、北海道の鉱山地域の郷土料理)• 馬のもつ煮(長野県伊那地方の郷土料理)• 北海道で近年特産品として販売(他にカレー、カレーなども)• 野生の鳥獣(肉)を指すフランス語• 日本独自のもつ調理法• 日本独自の調理法について詳述• 外部リンク [ ]•

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食べ物について

鎌倉 時代 食事

鎌倉時代 かまくらじだい は、武士が歴史の表舞台に登場してきた時代です。 それまでは貴族中心の文化で、食事も細かい作法が決められていました。 また、乳製品と魚を一緒に食べると腸に虫が発生するといった 迷信が信じられていたためメニューに偏りが出やすく、 不健康な食事によって早死にする貴族もたくさんいました。 しかし、鎌倉時代になり、武士たちは戦で膨大なカロリーを消費するようになりました。 それまで室内での生活が中心だった貴族とは、比べ物にならないほどの運動量です。 そこで、戦に耐えられる体力を 維持 いじ できるようにするため、 それまでの細かい作法や迷信にとらわれることなく、 栄養バランスの整った食事をするようになったのです。 関連記事: 関連記事: この記事の目次• 主食は玄米!現代から見ても健康的な食生活 鎌倉時代の主食は玄米でした。 この時代、厚手のふたをつけた 羽釜 はがま が広まったため、 それまでは米を蒸していましたが、炊くようになりました。 それに合わせて干し魚や大根汁、また、自分たちでとった新鮮な野菜や肉も食べていました。 遠方から都に運ばれてきた保存食ばかり食べていた貴族とは大きく異なります。 鎌倉時代の武士たちの食事は、質素でしたが、健康的なメニューでした。 また、戦の時には、3〜4回に分けて食事をすることもありました。 栄養バランスの整った食事をしっかりとっていたため、 鎌倉時代の武士たちは、まるで金剛力士像のように ムキムキマッチョだったのかもしれません。 また、鎌倉時代になると、 現在の私たちの食事に欠かせない調味料である「しょうゆ」のもととなる 「たまり」が登場します。 この「たまり」は、戦陣での食事に大変重宝されました。 ちなみに、味噌汁が登場するのは、もう少し後の室町時代になってからのことなのです。 調理技術が向上し、料理の専門家が登場した鎌倉時代 鎌倉時代、調理技術が大きく向上したことによって、 汁物、煮物、煎り物、 炙 あぶ り物、蒸し物、漬物といった 「和食」の基本的なカテゴリーが誕生しました。 また、桃や梨といった果物や、柚子や金柑などの柑橘類も食べられていました。 肉類は、鳥やいのしし、うさぎの肉がメインでした。 また、食事は 折敷 おしき と呼ばれるお盆の上に乗せて出されていました。 味付けは塩やお酢、 醤 ひしお が主に使われ、とても質素でした。 この醤というのは、米や麦、豆などを発酵させてから塩を含ませて作られた調味料で、 鎌倉時代から使われるようになりました。 鎌倉時代の食事は、平安時代の形式的・儀式的な食事内容と比べるととても健康的でした。 現代のインスタント食品や加工食品が多様されている食事内容と比較しても、 鎌倉時代の武士や農民の食事のほうが身体に良いといえるのかもしれません。 現代人も見習うべき鎌倉時代の武士の食事 実際、今でいうサプリメントや機能食品は鎌倉時代にはありませんでしたが、 武士たちは戦がない時には農業をして身体を動かしていたため、 生活習慣病や、骨粗しょう症になることはほとんどありませんでした。 しかし、鎌倉時代の医学書「 病草紙 やまいのそうし 」を見てみると、 肥満が原因で人に支えてもらわないと歩くことができない裕福な家の女性の記述があります。 この記述からも分かるように、富裕層は平安時代とあまり変わらず不健康な食生活を送っていました。 そのため、武士や庶民と比べると肥満だけでなく、 脚気や偏った食事が原因の栄養失調によって身体を壊すことがとても多くありました。 近年では、大学の教授や学生によって「鎌倉時代の食事を再現する」という取り組みが行われています。 今の時代は加工食品や保存食も多く、何も考えずに食べていては、 平安時代の貴族のように栄養バランスの偏った不健康な食生活になってしまいがちです。 そうすれば生活習慣病のリスクも高くなってしまいます。 決して豪華ではありませんが、新鮮な野菜や肉類、そして栄養価の高い玄米を食べていた 鎌倉時代の武士や農民の食生活から私たちが学べることは、たくさんあるはずなのです。 関連記事: 関連記事:.

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鎌倉時代の流れと文化・食事・服装を解説2

鎌倉 時代 食事

今回「終活ねっと」では、室町時代の食事について説明していきます。 そもそも室町時代とは?• 室町時代の食事様式とは?• 室町時代の身分に応じた食事• 室町時代の台所用品について 時間のないという方やお急ぎの方も、知りたい情報をピックアップしてお読みいただけます。 ぜひ最後までお読みください。 室町文化 室町時代には、三代将軍義満の時代の「北山文化」と八代将軍義政の「東山文化」という特徴的な二大文化が栄えました。 南北朝時代が背景にある北山文化は、中央集権的で公家や武家文化、また中国文化の影響があるのに対し、東山文化は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれています。 応仁の乱以降地方伝わり、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していきました。 短編の読み物集である「御伽草子(おとぎそうし)」や小唄などの庶民芸能が流行していきました。 また、茶の湯・能楽・書院造など今日の日本文化の原型と考えられているものが、この時代に確立されました。 生活の発展 この間武家は貴族に倣い、贅沢な生活を送っていました。 武士たちの生活は、鎌倉時代からあまり変わりませんでした。 庶民の生活は大きく変化していきました。 農民は、わらの屋根と土壁で作られた家で生活をおくっていました。 天井には槍が置いてあり、戦いになると武士として参加しました。 農具を発達させ、二毛作を行うようになり、作物の種類を増やすなど努力を重ね、生産性が向上しました。 生活にゆとりができた名主達は、武カをたくわえ土地の豪族となり、独立していくこともありました。 また、荒れた世相を反映して、村全体で田んぼを守る惣(そう)という自治組織もできました。 農業共に、林業・漁業・手工業も発達してきました。 また、それらの生産物を売りさばく商業も進歩しました。 座(ざ)という同業者組合を作り、市(いち)も広がっていきました。 また、職人たちにより、その地方独特の特産品も生まれました。 室町時代の食事様式 貴族と武士、また禅宗の食文化と茶道の本膳料理が混ざり合い、更にヨーロッパの食文化まで加わるようになったこの時代、調理法が発展し、新しい食文化が生まれました。 これが現在の日本の食文化の基礎になりました。 室町時代は食品の種類が非常に多くなった時代で、明治時代に欧米の食品がやってくるまで、現在の日本で使われている食材のほとんどがこの時代に見受けられます。 このころになると支配階級の武士、庶民ともに質素ながら一汁二菜、三菜レベルの食事を日常的に楽しみました。 また、懐石料理、饅頭 、麺類なども生まれ、食文化が大きく変化しました。 室町時代の食事回数 奈良時代、食事は朝夕の1日2回で、間食を摂るという食習慣でした。 室町時代になると食事の回数が1日2回から3回になり、品数も豊富になりました。 1日3食となった背景には、戦乱が続く世になり戦場で激しく働くようになった武士が、3回の食事を習慣化していったことにあるようです。 また、農業の発達により米の収穫量が増え、食料事情が向上し、さらに市などの流通が発達して、食料の入手が容易になったことも要因にあるようです。 お米の食べ方 室町時代から、米は蒸すから炊くへと変化していきました。 現在と同じご飯を食べる事が多くなりました。 伝統を守る貴族は、糯米もち米を蒸した「強飯(こわいい・こわめし)」を食べていましたが、武士や庶民は、今の飯にあたる釜で炊いたやわらかい「姫飯(ひめいい)」を食べるようになりました。 米はまだ贅沢なものでしたが、徐々に庶民の間にも広がっていきました。 この時代、「餝飯(ほうはん)」といって、飯の上に味つけした具をのせた飾り飯や魚や肉の保存食を飯と一緒に食べる「なれずし」などが食べるようになりました。 また、麦飯の記録が頻繁に出てくるのは室町時代に入ってからです 醤油が生まれた室町時代 日本の代表的な調味料のひとつ「醤油」の文字が文献に現れたのは室町時代で、室町中期には「醤油」と呼ばれる液体調味料がありました。 醤油は、古代の調味料、「醤(ひしお)」からできたといわれています。 醤は、米や麦、豆などを発酵させてから塩を含ませたもので、奈良時代の「大宝律令」にも醤院(ひしおつかさ)という役所が作られていたという記述があります。 この醤が「溜(たまり)」となり、さらに「醤油」に発展していったとされています。 出しが使われるようになったのは、室町時代 室町時代、昆布や鰹節が普及し始めた事で、料理の下味の基本としてダシを使う事が普通になったと考えられるそうです。 味噌汁は室町時代から 日本のもうひとつの代表的な調味料「味噌」は、奈良時代の文献に「未醤」として登場しています。 今日のものとはだいぶ違うようですが、鎌倉時代には、おかずや戦場での食料として食べられていたようです。 室町時代には出しが使われるようになったせいか、現在のような味噌汁が作られるようになりました。 それまでは粒を残したままで、大豆を食べるのが「味噌汁」でした。 粒のあるみそをすることで調味科としての用途が広がりました。 みそ汁だけでなく、今に伝わるみそ科理のほとんどが、この頃から始まりました。 この時代に、みそは大きな飛躍をしたと考えられます。 茶の湯の流行 平安時代から中国より伝わっていた茶ですが、日本各地での茶樹栽培が普及し、本格的にお茶が飲まれるようになったのは鎌倉時代後期だと言われています。 室町時代になると茶の作法を重んじる「茶の湯」が流行します。 貴族や上流武士の間で「亭主」と呼ばれる主催者が、客に茶をふるまう「茶会」が頻繁に開かれるようになりました。 しかし、この頃の茶の湯は、本膳料理を食べる事が主で、茶は添え物程度でした。 懐石料理の始まり 鎌倉時代、武家の間には「椀飯」といって正月に御家人が将軍に料理を献上する儀式がありました。 当初は鯉一匹など簡単な物でしたが、室町時代になり、武士たちも儀礼や行事を重視するようになり、権力を誇示する為に「饗宴」において、豪華な料理を振る舞うことは重要でした。 次第に料理の品数も増え、料理自体にも工夫が凝らされるようになりました。 武家社会において最も重要な饗宴は「御成り」と呼ばれる、家臣が将軍など高貴な客人を自宅に招く行事でした。 将軍足利義輝が三好義長邸に御成りした際には、7個の膳に8汁23菜の料理が出されたと言います。 室町社会の饗宴は、平安時代に確立した酒礼、饗膳、主演の3部のうち、食事の部分である饗膳が本膳料理に変わりました。 本膳料理は、銘々が小さな膳の寄せ集めである点と、汁と煮物料理がかなり含まれる点において、平安時代の饗膳と大きく違いました。 日本の食事の基本形である飯、汁、漬物、おかずの組み合わせを本膳(一の膳)・二の膳・三の膳から成り、最も丁寧な場合には、さらに与の膳・五の膳を提供します。 一汁三菜 ・ 一汁五菜 ・ 二汁五菜 ・ 二汁七菜 ・ 三汁七菜 ・ 三汁九菜 ・ 三汁一一菜 などの種類があります。 この本膳料理が後の懐石料理にも大きな影響を与えています。 室町時代のそれぞれの食事 武士の食事 武士たちは鎌倉時代から引き続き、質素ですが、栄養のあるものを食べていました。 主食は玄米をかために煮たおかゆで、おかずは魚の焼き物と野菜の煮物、漬物などを食べていました。 味つけに醤(ひしお)や塩をつけて食べていました。 品数が豊富になり,武士の家では,専門の料理人が食事をつくるようになりました。 上級武士は畳(たたみ)の部屋で,大小の膳(ぜん)に並べられたごはんや汁(しる)もの,おかずを食べていました。 庶民や農民の食事 職人など庶民は、普段の生活では、麦と米を混ぜたごはん,焼き魚とすまし汁など一汁二菜でした。 お祝いなど特別な日は、ごはん、鯛の塩焼き,野菜の煮しめ,酢の物,すまし汁など一汁三菜でした。 しかし、大多数の農民の食生活は、前時代から変わらなかったようです。 米を生産しても相変わらず米を食べられずにいたようでした。 稗粥(ひえがゆ)などが主食でした。 室町時代の台所用具 室町時代には,桶(おけ)や樽(たる)などの木製の容器が発達しました。 水,つけもの,食器など入れるものに応じて,さまざまな形のものが作らるようになりました。 つくり手も,桶師(おけし)とよばれる桶づくり専門の職人が現れています。 室町時代の食事についてのまとめ いかかでしたか? 昨今、話題の日本食の原点である室町時代。 日本人が積み重ねてきた食文化の歴史が分かって頂けたのではないでしょうか? これを機会にヘルシーな日本食を見直してみては、いかがですか。 最後までご覧いただきありがとうございました。 カテゴリーから記事を探す• 関連する記事•

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